五十屋書房

@wlm6223

五十屋書房

 涼介は五十の歳を超えてから、読書の趣味を持つようになった。それまでの涼介の読書は、仕事柄、コンピュータ関連の専門書ばかりであった。それらの本は全て横書きで数ページに一度はプログラムの例題が示されていた。涼介の読書の偏食ぶりは、敢えてやってきた節があった。というのも、コンピュータの世界は進歩が非常に早く、次々に新しい知識を吸収していかないと仕事について行けず、全うな文学書などを読む暇がなかったのだ。

 エンジニアの世界では「今までに何メートル分の本を読んできたか」という問いがある。これはいままで読んできた専門書を平積みにして何メートル分になるのか、という意味である。涼介の場合は何メートルになるか計ってみたことはなかったが、六畳間に本棚を無理矢理押し込んで二部屋分になっていた。

 涼介が文学に興味をもちだしたのは、第一に仕事が管理職へと移ったため、新しい技術の吸収は概略だけ理解していれば充分になったためである。第二に時間的な余裕がうまれたためである。スポーツをはじめるにも歳が行き過ぎていたし、美術には疎かったし、手頃に楽しめるものはないか、と近所の本屋へ行ったのが切っ掛けである

 涼介にはどの本が良いのかまるで見当がつかなかった。専門書の善し悪しを見抜く力はあったが、小説棚にある文庫の善し悪しはまるで分からなかった。いい歳をしてこれではいかんな、と思った。

 どうせ買うなら有名人の著作、つまらなくて途中で投げ出してしまわないように、ページ数の少ない本をいい加減に選んだ。志賀直哉の「小僧の神様」である。縦書きで日本語しか書かれていない本は涼介にとって新鮮に映った。これを切っ掛けに涼介は文学の世界にどっぷりと漬かるようになった。

 となると、行くべき先は自然と神保町の古書街になる。

 週末には靖国通り、すずらん通りの古本屋へ足繁く通うようになった。たまに裏道に入り、どこか知らない古本屋はないかと神保町界隈を散策するのが楽しみになっていた。

 白山通りの裏手に「五十屋書房」という本屋を見付けた。

 古本屋にしては店構えも小綺麗で、入店すると、立派な本棚に古書が整然と並んでいた。古本屋特有の枯れた紙とインクの匂いがあった。涼介は本棚を見ればその店がどれほどの品格と本への含蓄があるかを見分けることができるようになっていた。この店は充分に合格点である。

 本はかなりの年代物ばかり揃っている。改造社文庫の布張りの文庫が充実している。

 おそらく店主であろう店番の老人に、安部公房の本はあるか、と訊いてみた。

「安部公房でしたら『友達』まではありますよ。もう売れちゃいましたがね。うちは五十年以上前の本しか扱っておりませんので」

 確かにその通りだった。本棚には三島由紀夫「花ざかりの森」の単行本や大岡昇平「俘虜記」の単行本があった。涼介は改めて本棚の在庫を見渡すと、どれも状態の良いものが多く、店主の拘りを感じた。

 この店なら間違いはない、と涼介は判断し、その日は二冊ほど購入して帰宅した。

 それからというもの、涼介は週末ごとに五十屋書房へ訪れ、一週間分の読書量に見合った量――一冊か二冊――の本を購入するのが常になった。

 次第に店主とも気心が知れるようになり、店に顔を出すと「今週は堀田善衛の『広島の孤独』が入りましたよ」と言われるような間柄になった。

 それはいいものの、古書の趣味はそこらのワゴンセールの一冊百円で済む金額ではなく、妻からは眉をひそめられるようになった。なにも男の三悪(女・酒・博打)に入れあげているわけではないので、妻は時折小言をいう程度であった。

 それから数年経ったが、涼介の古書への情熱は冷めることもなく、神保町通いは続いた。

 涼介が六十になる誕生日、妻から誕生日祝いとして、まとまった小遣いを貰った。「あなたの好きな本が分からないから、自分で買ってらっしゃい」とのことだった。

 その週末も涼介は五十屋書房へ向かった。

 が、店があった所にはただの古い雑居ビルがあるだけだった。まさかそんな、道を間違えたかと思ったが、もう何年も通い続けた道である。間違いはようはない。

 辺りを見回したが、いつもの見慣れた光景があるだけだった。ただ一点、違うところがあった。五十屋書房のあった場所の斜向かいに「六十屋書房」という古本屋があった。

 涼介は迷わず六十屋書房に入った。きっとこの先、七十屋や八十屋とどこまでも続いていくのだろう。涼介はいつまで神保町に通えるか分からないが、取り敢えずこれからも神保町へ通う理由はできたのだ。

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