閏日生まれ

@wlm6223

閏日生まれ

 彼は文政三年生まれの四十八歳なのだそうである。見た目は五十代前後の、きっちりとスーツを着こなした壮年紳士なのだが、言っている事が無茶苦茶である。何を馬鹿なことを言い始めたのかと思ったが、至極まっとうな態度でそう言うのである。彼自身も身の上に起こっている不思議なことに疑問に思っているのだが、長年の経験上、そういう結論になったそうである。

 文政年間というと江戸時代だ。私は西暦でいうと何年なのか、と彼に問うと一八二〇年生まれだと言う。それでは実年齢二百歳近いじゃないか、そんな事があるもんかと反論するが、彼は少々困った顔をして首を横にふるのである。彼が言うには、自分は閏年の閏日生まれで、四年に一歳しか年をとらない体質なのだそうだ。

 彼の出身は紀州の農村で、いわゆる豪農の家に生まれた。生まれてしばらくの間は普通に可愛がられていた。彼が三歳か四歳になる頃、いつまで経っても赤ん坊のままでいるのを乳母が不信に思い、村の神社に相談した。神主は一度その子を連れて来なさいと言う。両親と乳母はまだ乳児の彼を神主に診せた。

神主は憑き物はないが念のため、ということで一通りのお祓いをして家に帰した。だが、それ以後も彼の成長はいつまで経っても遅く、家人のなかでも気味悪がる者がでてきた。両親は仕方なく彼を奥座敷の中に幽閉し、年相応になるまでそこで育てることにした。彼が言うには当時の記憶はほとんど無く、何か薄暗い所で一日中いたのを微かに覚えている程度だそうだ。

 安政四年、彼の母が亡くなった。その葬儀に参列するため、彼はようやく奥座敷から出ることになった。ほぼ初めて見るような空の色、風にそよぐ稲穂の波が美しかった、と彼は言う。葬列に居並ぶ喪服を着せられ、親戚一門が揃う中で、父は彼を「今度引き取る事になった妾の子」と紹介した。当時彼は二十八歳。見た目はまだ七歳の子供だ。当時彼はなぜ父がそんな嘘をつくのか理解できなかったが、今思うと彼を外の世界へ出すための苦肉の策だったのではないか、と考えているそうだ。その年頃になると、もう物心がついている。いつまでも奥座敷に居させる訳にもいかなかったのか、幽閉生活を気の毒に思ったのかは分からないが、以後、彼は外の世界へ踏み出すことになる。

 彼は寺子屋に出され、読み書き算盤を身につけた。今でも筆書きで変体仮名を使えますよ、と彼は言う。その一方、村の畑仕事も覚えた。彼自身もそんな優雅な農村の生活に満足していた。時代は幕末へと突き進んでいたが、彼の村はどこかのんびりと時を過ごしていた。

 そして彼が四十八歳の頃、ついに時代は明治となり維新の風が日本全国へと吹いた。彼は立身出世を目指し、東京へ丁稚奉公へ出ることにした。このとき初めて「民主主義」という言葉を耳にした。彼はこれを経済による下克上と解釈した。しばらくして「西暦」という言葉も知り、閏年の存在を知った。これが自身の発育にぴったりしていることに驚いた。調べてみると彼の誕生日はまさに閏日であった。という事は、人の約四倍の寿命を与えられたのである。まだ少年だった彼はこれからの前途洋々たる人生を思い描いた。

 彼に言わせると、明治時代は貧しくも希望に満ちていたそうである。日露戦争に勝利し、祝いの提灯行列にも参加した。ごく一部にではあるが、街にはガス灯が灯った。新橋・横浜間に鉄道が通った。休日に横浜へ行き、初めて異人を見たそうである。医療が発展し、全国に尋常小学校ができた。東京を中心に大学がいくつも建てられた。これで日本も欧米列強と肩を並べる国になったと皆が思ったという。

 それだけ長生きしていたら、命に関わる事件もあったんじゃないだろうか。彼が言うには二回ほどあったそうである。まず関東大震災。彼も罹災し住居を無くしたとのこと。余震が数日続いていたほどだった。もう一つは東京大空襲。当時、文京区小石川の長屋に住んでいたので、たまたま被災は免れたものの、辺り一面焼け野原に死体の山ができていたと言う。友人の援助のため渋谷へ行ったところ、道玄坂は上から下まで死体置き場になっており、臭いが酷かったとのこと。当時の事を思い出すと、まさか繁華街になるとは思いもつかなかった、と言う。

 明治以来、東京に住んでいると、話し言葉が時代によってかなり変化していった、とも彼は言う。これから日本はどうなっていくんでしょうかと彼に訊いてみた。

「今も昔も日本人は変わってないよ。若者は遊んでばかりいるし、中年は仕事しかしていない。老人は金にがめつくて保身に身を費やしている。科学や医学は進歩したが、人間性は進歩どころか変化すらしてないね」

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