こんな日もあるでしょう
@wlm6223
こんな日もあるでしょう
一九九九年の夏は暑かった。いや、本当に熱かった。
おれはいつも通りオフィスでCADと格闘していた。現プロジェクトの最終工程に没頭していた。いやあ、この炎天下の真夏でも涼しいオフィスで仕事ができるのは、エンジニアの特権だ。
「緊急会議だ」と上司が招集をかけた。またかよ。これで何度目だ。
俺のいる会社は社員十名ほどのオーディオメーカーだ。最近はデジタル化の波におされて業績は頗る悪い。いや、悪いなんてもんじゃない。おれはちょくせつ財務に関わっていないので具体的な数字のことは知らないが、仕事の減り方と過剰在庫の山が現状の有り様を察して知るべしものだった。
肝心の会議の方は経理担当の理詰め数字懸念と、上司の馬鹿エンジニアの精神論との喧喧囂囂に終始した。これもまたいつもの通り。経理担当が最後に「もう解散は避けられない」と言う。やっと結論がでたか。現プロジェクトが終わったらおれもプー太郎か。せっかく就職氷河期を乗り越えて潜り込んだ会社がこの有様かよ。
その日の昼食は一人で摂った。これからの身の振りようを、ぼんやりと考えてみたかったのだ。と、携帯電話がなった。「もしもし」と言う間もなく電話口の男は怒声をあげた。「日栄の○○だ。有田商事が破産した。今すぐ保証人のあんたが八〇〇万円支払え」と言ってきた。有田商事はおれの親父が経営している零細企業である。破産? 半年前はあれほど景気がいいと親父は言い張っていたのに。「いま仕事中だから詳細は後日」「こっちだって仕事なんだよ!」面倒な相手だ。そもそも八〇〇万円なんて貯金がない。「とにかく今すぐは無理」と一方的に電話を切った。それから同じ電話番号で十回ほど着信がきたが、すべて無視した。十一回目で別の電話番号から着信がきた。「商工ファンドの××です。有田商事様が破産した件につきまして、保証人様に二二〇〇万円の保証金の支払いに関しまして……」「有田商事になにかあったんですか」「ですから破産を……」「払えるわけないじゃないですか。そんな大金」「ですが法律上、保証人になっているわけで」法律を使うのか。だったらこっちも法律を使うしかない。「あなたの言っていることに不服があります。のちほど弁護士から連絡をいれさせます」そこまで言って電話を切った。すぐ有田商事に電話を入れたが誰もでない。親父の携帯電話もでない。あのクソ親父、子供のおれをただの金蔓扱いかよ。やってられるか。とにかく「体調が悪いので早退します」と上司に告げて早退。役所へ電話し、法律相談に乗ってもらえる弁護士の電話番号を教えてもらう。さっそく弁護士事務所へ電話する。「ああ、日栄と商工ファンドですか。さいきん商工ローンの相談が多いんですよ」と、またかという感じ。先方の連絡先と担当者名を教えて面談のアポをとった。
夜になっていた。いつもより早く帰宅すると玄関に見慣れぬ女物のサンダルがあった。気にせず「ただいまー」とリビングへ入ると妻の美咲と浮気相手の静枝が対峙していた。「あっ」と、つい声が出た。二人がおれを睨み返す。「あなた、ちゃんと説明して」と美咲が震え声で切り出した。「結婚してるなんて言ってなかったじゃない」と泣く静枝。静枝がどうしておれの自宅の住所を割り出したか知らないが、この場を丸く収める手段がないことはすぐに理解した。「三人で話し合うことも無いだろう。とにかく今は夫婦二人にさせてくれ」と切り返した。「なにが夫婦よ! 浮気しといて口答えすんな!」と、美咲は灰皿やらクッションやら、そこら辺にある物をおれに投げつけてきた。いや、包丁が飛んでこなかっただけまだマシか。
家を追われて新宿へ出た。今夜はヤケ酒でも飲もう。ゴールデン街で三軒はしごした。おれはそもそも酒が弱い。既に酩酊状態だった。どこをどう歩いていったかよく覚えていなかったが、四件目のバーは歌舞伎町の真ん中にあった。いかつい顔のボーイが「お会計です」と、六十万円を請求してきた。「こんな高いワケねーだろ! 店長だせ!」おれはボーイの顔面を殴り、股間を蹴り上げた。
そこから先のことはよく覚えていない。気がついたら道端でくの字に倒れていた。全身がズキズキ痛む。力が入らない。起き上がれない。そうとう袋叩きにあったらしい。もう夜明けらしく、鴉がそこら辺で啼いている。遠くに聞こえていたサイレンが徐々に近づいてきた。おれは救急車に乗せられた。救急隊員が「大丈夫ですか。なにがあったんですか」と訊いてくる。色々あってね、と言おうとしたが何か喋ろうにも呻き声しか出せない。口の中が切れているらしく、血の味がした。
もうどうにでもなれ。が、まあ、大人になれば、こんな日もあるでしょう。
こんな日もあるでしょう @wlm6223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます