大学生心得

大学は研究機関である

——大学は研究機関である。


 大学の、本来あるべき姿というのは、教育機関でもなく、就活予備校でもない。


 もちろん、「研究」に至る過程として、良質な知識や論を備えた教授・講師人から教育を受ける、というのはあるだろうが、それはあくまで過程であり、目標や着地点とするべきものではない。


 言い換えれば、高校までのように知識というものを「得る」だけではなく、「使う」というわけである。


 だからこそ、卒業までに、「卒論」という、自分が初めて発見した、あるいは考え出したものをこの世に生み落とすことが、卒業の条件となるのだ。


 近年では、大学の卒業資格として、卒論の提出は必須でない場合も増えてきているらしいが……


 その場合、「あなたは大学で何を研究したのか」という問いには、答えられないのだろうと想像する。


(アスリートコース、教員コース、医大、その他単科大学など、明確に特定の資格や免許を取ることに特化したルートを歩んでいる場合は例外としてもいいだろう)


 では、大学がもはや研究機関でないのだとしたら、その実態は何なのかと言うと……


 就活予備校、である。


 もちろん、大学に行く目的が、「その大学の特定の企業や組織へのコネクションを得るため」だとか、「その大学を出ていれば世間的に高学歴とされ就活などでも学歴フィルターで落とされことはないから」だとか、戦略的なものであると割り切っているならば、大学を就活予備校として見るのも、理解はできる。


 とはいえ、大卒というハードルが、ここ半世紀で大幅に下がっていることはほとんど明確で、だからこそ新入社員がおじさんおばさん社員からしばしば「あんた大卒なのにそんなのも知らない/できないわけ?」と言われてしまうという現象が増加するのではないだろうか。


 研究らしい研究はせず、単位を取って卒業さえできればいいという学生が多ければ、大卒に相応しいレベルだと世の中が考える教養や能力が備わっていない大卒者が増えるのも、不思議ではない。


 「◯大卒」という文字面のレッテルよりもむしろ、「自分は大学でこれこれという研究にしっかりと打ち込んできたので」というふうに自身の学問研究を誇れることの方が、真の意味での「◯大卒」を表しているはずなので、ウン百万円という若者にとってはあまりに莫大な投資をせっかくするのなら、「大学は研究機関である」ことを意識してキャンパスライフを送るべきではないだろうか。


 特に、有利子の奨学金制度という、事実上の消費者金融システムの世話になる場合は、猶予期間が終わって返済が始まってから「自分は何のために大学に行ったんだ?」とか「なんで月に何万円も、それを何十年も払い続けなければならないんだ?」と悲しい自問自答をする羽目にならないためにも、一定の学問の追究を試みた方が、精神衛生上、よろしいように思う。

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