10.生か死か
「いや、辞めておこう。俺は詳しくは知らないが、今きっと3対1なんだろう。」
互いに構えを解く。片膝を立てて項垂れるように廊下に座った。
「懸命な判断だね。お礼と言ってはなんだけど、君からの質問には3つ全てきちんと答えよう。君は賢そうだからね。」
「ああ、そりゃありがたい。」
顔も合わせずに皮肉る。ガルネンの第一印象は彼から見てもやはり悪い。
「じゃあ1つ、アレはどうしてこうなったんだ。」
結束バンドで縛られたアレを顎で指し、ガルネンに問う。
「あれは特別な薬を何度か投与しているんだ。想定よりずっと回数が少なく済んだが。」
「薬だと。人為的にそうなったのか。」
俺の方に視線を向けて、彼は納得したようだ。相変わらず頭のキレる男だ。
「ああ、そういうことか。シャルル。お前が隠したかったことは。そのクスリの投与に、医療専攻だったシャルルが1枚噛んでやがるんだな。」
「タイガ、君はそういうのには無縁だ。これ以上関わるな。」
「ああまあ、そうだな。俺は人を殺したこともないし、クスリをやったこともない。
「関わるなと言っただろう。」
「お前と隠し事について話したとき、俺も言っただろう。見届けさせてもらうと。その距離が近いか遠いかの違いでしかないんだよ。」
その答えに俺は黙らせられる。彼も生半可な考えではないことがしみじみ伝わる。
「そして2つ目、その薬はララとシャルルの2人は打っているのか。」
「ああ。」
これにきっと思うところがあったはずの彼は何も言わずにその事実を受け止めた。
「最後だな。...そのクスリについて、教えてくれ。余すことなく。」
「本当のところは答えたくないんだけど、聞かれたからには仕方ないね。」
ガルネンは、あの夜俺にノアの説明をしたように全てをタイガに話した。それを彼はまるで絵本を読み聞かせてもらうように静かに聞き続けていた。
「ノアねえ。随分と大層な名前を付けたもんだ。」
「この薬はホンモノだよ。クリーチャーを見ればわかる。さて、シャルル君。これからは接種の方法を今以上に考えなくちゃいけないね。今のところ、君の安全が最優先だ。 」
「ノアは方舟のことだろう。それに乗れば洪水から救われて、幸せになれる。今の状況にピッタリじゃないか。このクルーズ船のことみたいだな。」
クルーズ船を方舟と仮定するならば、洪水とは果たしてなんの事であろう。ひょっとすると、洪水とはクリーチャーのことなのではないのだろうか。大量のクリーチャーが押し寄せて来たとすれば、それは大きな洪水のように見えるかもしれない。旧約聖書のノアの話は、本当は人間対人間の話と仮定してもおかしくない。
「で、貴様は俺にどうして欲しいんだ。接種の際にボディガードでも付けるのか。」
「君はちゃんとカルテに記録してくれていたよね。それを使って、効果時間が長い者は接種後すぐにあの檻に入れよう。幸い、注射してから衝動に駆られるまでは少しのタイムラグがある。正気に戻ったら檻から出してあげればいいだけさ。 」
「ならば、そうしよう。報告しておくが、今まさに縛っている彼こそがD.G.だ。接種回数は少ないため、正気に戻る可能性もある。」
「ああ、あの恐怖の兆候アリの方か。ララちゃんの言う通りご老人だから、回数が少なくて済んだのかな。」
ノアについてや、今後の接種について話し合っているうち、弾丸が貫かれた足はゆっくりと再生し、D.G.氏は奇跡的にも正気に戻ることが出来た。俺の予想通り、回数が少なかったおかげで薬の効能が薄かったのだろう。
俺が1つふと浮かんだ疑問は、クリーチャーになる前の怪我や病気が治るかどうかである。D.G.氏は足が悪い。クリーチャーになる寸前まで杖を突いていたが、足が悪かろうと立てないわけではない。実際のところ、俺を襲う際には元気に走っていた。もしノアの効果が
「D.G.氏、目を覚ましましたか。拘束を解きましょう。」
「なんだ、この拘束は...ああ、そういうことか。ついに不老不死になってしまったのか...。」
「いえ、まだ寸前といった感じでしょう。貴殿は正気を取り戻したのです。...最後にノアを続けるかどうか選んでいただきたい。どうされますか。 」
彼は周りの助けを借りながらようやく立ち上がる。
「俺もバカではない。他の希望者は知らないが、ノアについては調べていたのだよ。襲いかかったのが家内ではなくて、元気な君たちで幸運だ。こうして俺と君たちを生かして、無力化してくれたわけだからね。」
「ええ。公安としても襲われたのが我々でまだよかった。乗客に危害が加わってしまえば、我々の沽券に関わります。貴殿はこの間ノアを辞めたがっていましたが、どうしますか。今ならまだ間に合います。」
疲れた様子でため息1つ吐いて考えていた。しかし、予想通りの答えが帰ってきていた。
「辞退するよ。公安さん、折角良くしていただいたのに申し訳ないね。 」
「そうですか。残念ですが、嫁さんを襲ってしまっては元も子もないですからね。余生を楽しんでください。」
氏は集団接種を5回目にして辞退することを決断した。残る集団接種希望者は19人となった。
タイガの身になって考えてみれば、この状況は理不尽である。俺の様子がおかしくなって、存在もよく知らない脅威の影を感じて、果てにクリーチャーの陽動をした結果、不老不死の薬を俺が乗客に接種させている事実に辿り着いた。彼が怒ってもなんら不自然ではない。だからこそ、今このように胸ぐらを掴まれている状況は責任をもって俺が受け入れるべきなのだ。
「やめて、タイガ。シャルル死んじゃうよ。」
ララの制止も聞かずにタイガは服を握る拳を強める。
「うるせえ。よくよく考えてみれば俺はただの被害者じゃねえか。乗客が居たから感情を抑えていたが、おかしいだろ。クスリのことだってそうだぞ。お前こそが不老不死に成れるとでも思ってんのか。」
「違うよ。シャルルは希望者にしかノアを投与してない。」
俺を掴んだ腕を解こうとするが逆の手で突き飛ばされる。
「ララ、お前も自分の立場を分かってるのか。俺を止める権利は無いんだぞ。女性だから今ここで暴力してねえだけだ。」
体重が軽い彼女は1mほど突き飛ばされる。
「一旦落ちついてくれよ。俺たちだって生半可な気持ちじゃないんだ。ララの目見ろよ。」
それはまるで狼のような、可愛い目から発せられる眼光。涙目を浮かべても揺らがない。
「俺たちは人間として死んだっていい。」
その目をまじまじと見て、タイガは胸ぐらの絞りを緩める。苦しかったせいで咳が盛大に出る。
「生物の枠からはみ出るってわけか。」
「そうよ。」
「じゃあ、分かった。死んだっていいなら正に人間の公安機関員である俺が殺してやろう。お前たちがクスリでクリーチャーになる直前に、俺のところに来い。同時にかかってこい。...それまでは、クワッド79のシャルルとララとして扱うよ。」
「そう言うのなら、喜んで。」
タイガは決闘の申し込みを俺たち2人にしてきた。俺たちは、不老不死到達する前の試練を受けなければいけないようだ。どう考えたってタイガが不利であるが、何か考えがあるのかもしれない。
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