第53話 政略結婚(1)
アンジュン辺境伯領
ガラス製造工場
15メートル×1.5メートルほどの長細いプールには、加熱されて溶けた錫(スズ)が溜まっている。そして、その一方から600℃に加熱されて溶けたガラスが流し込まれ、徐々に冷やされながら反対側に引っ張られていく。
錫の温度は約250℃に設定されている。錫の融点は232℃とガラスよりかなり低いので、流し込まれたガラスは錫の上で固まり始めるのだ。こうして、完全に平面なガラスを製造することができる。
しかし、ガラスや錫を加熱するためには大量の燃料が必要だ。とても周囲の森から取れる薪だけでは間に合わない。本当なら石油か石炭が手に入れば良かったのだが、アンジュン辺境伯領には大量に産出する鉱脈は発見できなかった。しかし、南部の平野部で泥炭層が発見されたのだ。これは、何万年にもわたって沼地の草が枯れて堆積したものだ。一見、普通の泥や土と変わらないのだが、乾燥させれば燃やすことができる。信長は“エネルギー開発公社”を設立して独占的に泥炭を採取し始めた。レンガくらいの大きさに切り出された泥炭は天日で乾燥され、ガラス工場を初めとした各種工場に送られる。
さらに、その熱を使って製鉄も開始した。鉄鉱石の鉱脈は見つかっていないのだが、領内を流れる川にかなりの砂鉄が混ざっていることを発見した。そしてその川の上流で、多くの砂鉄を含む砂岩で出来た山を確認したのだ。
信長はその山で大規模な“鉄穴流し“を実施して砂鉄を集めた。これは、江戸時代に行われていた砂鉄の収集方法だ。そして集めた砂鉄を使ってタタラ製鉄を開始した。
タタラ製鉄は砂鉄の採取される地域で行われるので、川や山沿いでは一日中煙が上がるようになり人夫も集まってきた。そして集落が出来つつある。作られた玉鋼は船に乗せられて川を下り、領主城に運ばれる。
信長は、領主城に運び込まれた鉄を使って、まず小型のスチームハンマーを製作した。これは蒸気圧を利用して動作する鉄の鍛造用のハンマーだ。熱した鉄にハンマーを振り下ろして鍛えることに比べて、何十倍も鍛造速度が向上する。このスチームハンマーを工場に20台設置し、集中的に農具や武器の生産を始めた。生産が軌道に乗ると工場をさらに拡張して、プレス機を制作して設置した。このプレス機によって、鉄鍋や鎧の部品などは数回のプレスで成形できるようになり大量生産が可能となった。安価に生産された鍋や農具は、瞬く間にイーシ王国を初めドワーフの国へも浸透していく。
さらに、農業技術の改良にも着手した。今までは小麦の種を畑にばらまくだけだったのだが、これを条植えに変更させた。植え方の指導をした役人を即席で養成し、出来るだけ多くの麦畑で実施させたのだ。また、冬の麦踏みも徹底させた。この改善によって小麦の収穫量は20%ほど向上した。春の田植えでは、苗代を作って苗を育て、それを正条植にする事を全ての水田で実施させた。信長がアンジュン辺境伯領を支配してから田植えの時期までに半年あったので、準備時間が十分に取れたことが功を奏したのだ。さらに、その頃には鎌や鍬といった鉄の農具が行き渡り、農作業の効率化が進んだ。稲の刈り取り作業こそ人力でせざるを得なかったが、脱穀等の作業は、足踏み式の脱穀機を領地全てに配布して、大幅な作業時間の短縮が実現できたのだ。
信長が支配を始めて1年、米の収量は前年の1.5倍を記録した。
しかし、農作物の植え方の改良などで一時的に収量は増加するが、すぐに肥料不足に直面する。次の作付けまでになんとしても肥料の目処を立てなければならなかった。その為、町のあちらこちらに公衆トイレや糞尿の回収所を作ったのだ。それまで住人の糞尿処理は、オマルにためて川や草むらに捨てるというちょっと信じられないくらいの状況だったのだが、信長はそこにメスを入れた。専用の処理工場を領内の何カ所かに作って、回収した糞尿を藁や枯れ葉などと混ぜて良質な堆肥へと加工した。
――――
アンジュン辺境伯領 領主邸
現当主のレイン・アンジュンは私室の暖炉の前で様々な報告書に目を通していた。そして、レインの向かいには14歳くらいの少女が座っている。その少女の髪の色は薄いブラウンでレインと同じ色だ。端正な顔立ちもレインに似ている。
「たった1年間で、この領地は信じられないくらい変わったな」
レインは独り言のようにつぶやいた。そして、それを聞いていた少女は険しい顔をしながら頷く。
信長の支配を受けて1年が経過してレインも15歳になった。内政に関してはほとんど信長達が取り仕切っているが、その報告だけはレインの元に届けられている。そして、その報告の内容は驚くことばかりであった。
「税率を下げたにもかかわらず税収は向上した。米の生産高は1.5倍だ。さらに、乳幼児の死亡率も激減し、城下は子供の泣き声と笑い声であふれるようになった。お前も領民の笑顔を見ただろう。父上の代の時、領民はあのように明るい笑顔をしていただろうか?」
出産時およびその後の消毒を徹底することによって、乳児の死亡率を今までの五分の一にまで減らすことが出来ていた。また、小さい子供は下痢をするだけで死亡することも多かったのだが、信長達が作った「ポカリアス」という飲み物によって多くの子供たちが救われるようになった。水に塩とブドウ糖を混ぜただけの飲み物という事だったのだが、効果は絶大だった。
「信長様はあと1年で王都に侵攻すると言っている。おそらく王都は簡単に陥落するだろう。そうなればこのイーシ王国は信長様の物となる。信長様はこの領地を安堵してくださると言っているが、それをさらに確実にしたいのだ。わかってくれ、ユウミ」
ユウミと呼ばれた少女はレインをじっと睨み下唇を噛んでいる。そして、その唇をゆっくりと開いた。
「信長はお父様の仇です。信長達の言うように、領民にとっては良い領主ではなかったのかもしれません。でも、私には優しいお父様でした。それなのに、そのお父様を殺した信長に嫁げというのですか!お兄様!」
「ユウミ、すまない。お前の気持ちもわかる。しかし、お前は貴族の娘だ。貴族の娘は政略結婚するものだと理解しているだろう?頼む、ユウミ。これは領民のためでもあるんだ」
「お兄様!私もいつかは政略結婚するものと思っておりました。でも、相手は父上の仇なのですよ!父上を殺した手で、あの邪悪な手に抱かれろとおっしゃるのですか!?私は嫌です!どうしてもと言うのなら私は死にます!」
妹の気持ちはもちろんよくわかる。兄としてはかわいい妹に幸せになってもらいたい。しかし、それ以上に領民を守らなければならないのだ。信長に妹を嫁がせることが出来れば、このアンジュン辺境伯領の安堵は確実なものとなるだろう。
レインはゆっくりと立ち上がり、ユウミの目の前に立った。そして両膝をついて額を絨毯にこすりつけた。五体投地の姿勢だ。
「頼む、ユウミ。私は愚かな兄で有り愚かな領主だ。こうでもしないと、領民を守ることができないのだ」
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