リリース・ザ・ビースト

花札 時雨

第1話〜カフェの静寂〜

秋の風が街を吹き抜ける午後。都心から少し離れた路地裏に、一軒の小さなカフェがひっそりと佇んでいる。「ロウ・ライト」と名付けられたその店は、近所の人々の間でも少し変わった存在として知られていた。客は少なく、看板も目立たない。それでの時折、この静かな場所に魅了される世に常連が足を運んでくるのは、寡黙な店主が入れる特別なコーヒーのせいだった。


その日、店主の玲司はいつも通り一人、カウンターの向こうで準備していた。30代前半の彼は、身長が高く、引き締まった体を持つ。黒いエプロンをつけた姿は一見、普通のカフェ店主に見えるが、その冷たい目つきと無駄のない動作には、ただの一般人ではない何かを感じさせる。


無口で、無表情。余計な会話をしない玲司の店に、客が長居することは滅多にない。彼はそれを気にしたこともなかった。むしろ、必要以上に人と関わり合いたくない。それが玲司の流儀であり、彼が望む平穏だった


午後2時、店のベルが鳴った。玲司が視線を上げると、一人の若い男がふらりと店に入ってきた。


「こんにちは〜」


明るい声が、静まり返った店内に不釣り合いに響く。そこ声の主は、20代前半くらいの男性だった。肩まで伸びた柔らかい茶色の髪、どこか無邪気な笑顔。玲司は一瞥をくれると、無言でカウンター席を指差した。


「ここ、座ってもいいんですか?」

玲司は短く「どうぞ」とだけ答えた。


男はためらいもなくカウンターの一番端に腰を下ろし、店内を興味深げに見回した。家具はシンプルだが、どこか温かみがある。それでも店全体には、無口な店主の影響か、妙な緊張感が漂っている。


「いいお店ですね。静かで落ち着く。」

彼の口調は、初めて来た場所とは思えないほど軽やかだった。


玲司はカウンターの内側で準備を続けながら、「ご注文は?」と尋ねた。


「うーん……おすすめ、ください」

男はにこりと笑う。その無邪気さに、玲司は心の中で小さくため息をついた。


玲司は手慣れた動作で、ホンジュラス産の深煎り豆を選び、丁寧にドリップを始めた。静かな店内に、コーヒーを淹れるときの水音と、心地よい豆の香りが広がっていく。


男__悠翔は、コーヒーの香りに目を細めながら「すごくいい匂いですね」と呟いた。玲司は相変わらず無言で作業を続ける。


やがて、コーヒーが抽出されると、玲司は無造作にカップを置いた。

「ホンジュラスの深煎りだ。砂糖は置いていない。」


「ありがと!」悠翔は嬉しそうにカップを手に取り、一口飲んだ。

「__うわ、めっちゃ美味しい!」


その反応に、玲司は思わず眉をひそめた。コーヒーを口に含んだ瞬間、ここまで素直に喜ぶ客は珍しい。


「これ、本当においしいですね。苦味がちょうど良くて、深みがあるのに飲みやすい。」悠翔は感心したように続ける。


玲司は短く「そうか」とだけ返し、再び黙り込んだ。


普通なら、玲司の子の反応で客は気まずくなり会話を打ち切る。しかし、悠翔は違った。彼は玲司の寡黙さに怯むどころか、むしろ親しみを感じように見える。


「こんな静かなカフェがあったなんて知らなかったなあ。ここ、ずっとやってるんですか?」


玲司は質問んを無視するように、静かに別のカップを片付け始めた。


「まあ、あんまり人を話すのは好きじゃない感じですよね。でも、なんだか落ち着くんです。」悠翔は気にする様子もなく、ポツリと呟くように言った。「僕も、人と話すの、ちょっと苦手なんです。」


玲司はその言葉に、ほんの少しだけ手を止めた。


「でも、誰かと一緒にいるのは、嫌いじゃないんですよね。」悠翔の笑顔には、どこか寂しさが混じっていた。


玲司は、それ以上何も言わずに彼の様子を見守った。


その後、二人は会話らしい会話を交わすことなく、ただ静かに時を過ごした。悠翔はカウンターでのんびりとコーヒーを味わいながら、店内を見渡していた。玲司は、そんな悠翔の存在が気になりながらも、自分の感情に戸惑いを覚えていた。


「なぜ、こんなに無防備な奴が、この店に来たんだ……?」


玲司の心の中にわずかな違和感が生まれていた。それは、かつての彼の人生では感じたことのない、「誰かを守りたい」という感情の予兆だった。


悠翔が席を立ち、会計を済ませようとしたとき、玲司はふと口を開いた。

「また来るのか?」


「えっ?」悠翔は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに笑った。「もちろん!次はいつ来てもいいですか?」


玲司は無言でうなずき、静かにレジを打った。


悠翔が去った後、店内には再び静寂が戻った。しかし、玲司の心には妙なざわつきが残っていた。


(俺は、もう誰とも関わるつもりはなかったはずだ……)


玲司はカウンターに手をつき、ふと腕の傷跡を見つめた。裏社会で過ごした日々の名残。それは、決して消えない過去のしるしだった。


だが、あの無邪気な笑顔に触れた瞬間、玲司の心の中に何かが変わり始めていたことに気づいていた。


「……厄介なやつだ。」


玲司はそう呟きながら、静かに店の明かりを落とした。

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