ピンクの雨が降るところ
末埼鳩
第1話 緑の瓶と赤い瓶
背中が冷たい。首と尻が痛い。目を開けてみる。ぼんやりとした灰色と緑が瞬きに応じて像を結ぶ。積み上げられた四角い石、そこから生えるコケやシダ。見上げれば空が青い。鳥の声がする。足と腕が痺れている。座ったまま、眠っていたようだ。もたれていた壁を支えにゆっくりと立ち上がる。まだ少し痺れているが怪我などはなさそうだ。ほどけていたブーツの紐を結び直し、辺りを見回す。ここは石で出来た崩れかけの壁だけが残る廃墟のようだ。周囲に他の建物はなく、人の気配もない。木がたくさん生えているが鬱蒼とした感じはなく明るい。湿気を帯びた涼しい風が首すじを撫でてゆく。心地よい場所だが、ずっとここにいるわけにもいかない。
歩いているうちに拓けた場所へ出た。まばらに生える草の上をオレンジ色の丸くてふわふわしたものが転げ回っている。近付いてよく見るとそれは丸い体に細長いクチバシを持つ鳥だった。左右に忙しなく動きながら上を見上げ、キイキイ声をあげている。鳥の目線の先には高さ五メートルほどの崖があり、その端にオレンジ色の丸いふわふわしたものが見え、それもキイキイ鳴いている。地面にいる鳥よりも色が薄いところから、ヒナ鳥だろうと思った。ではこの親鳥は、子供の巣立ちを見守ってでもいるのだろうか。それにしては様子がおかしい。親鳥は私の存在にも気付かず必死の形相で駆け回っている。素早く動く足はずんぐりと太く、時折パタパタする羽は体の大きさに対してとても小さい。そこで私は理解した。ああこれは、飛べない種類の鳥なのだ。
私は革の肩がけ鞄から小さな緑の瓶を取り出した。そのフタを開け、中身を自分の頭に振りかける。キラキラ光る細かい粉が煙のように広がり私を包んだ。次の瞬間私の身長は六メートルほどになっている。今の私から見れば虫のように小さなヒナを、潰さないようにそっと手のひらに誘導する。地面に下ろすとオレンジ色の鳥の親子はあっという間にどこかへ消えた。
背後から不気味な低い音がした。黒雲の中で鳴る雷にも似た嫌な音だ。振り向くと、私よりさらに大きな男が立っていた。男といっても人ではない。土のような質感の人型の生き物だ。肩にコケが生えているところを見ると、本当に土で出来ているのかもしれない。岩のような歯を剥き出して喉を震わせることで音を立てているらしい。その表情からして、どうやら彼は怒っている。鳥を逃したからだろうか。彼は、何か言いたげに崖の上を指さしている。その時緑の瓶の力が消え、私は元の大きさに戻った。私の本来の大きさは一メートル四十センチほどである。不意に体が地面から浮いた。土の男が私を脇の下からがっちりと抱え上げている。身の危険を感じたのは一瞬で、私はすぐに崖の上に下ろされた。土の男は先ほどと打って変わって笑みを浮かべ、今度は崖の地面を指さしている。そこには地割れの跡があった。男は地割れの隙間を覗き込んでいる。隙間には銀色に光るなにかが落ちていた。彼は自分の太くて不器用な指がその隙間に入らないことを手振りで示した。代わりに拾って欲しいというわけか。そこで私はオレンジの鳥のことを思い出した。あの細くて長いクチバシのことも。あのヒナ鳥にそんな意図が伝わるとは思えないが、彼なりに考えたのだろう。私はしゃがみ込み、地割れの隙間に手を伸ばした。だが銀色の何かは狭い隙間にはまり込んでいて私の指でも取り出すことはできなかった。その辺りに落ちていた木の枝を使っても結果は同じだった。一向に変わらない状況に耐えかねたのか、土の男は唸りながら泣き出した。黒いビー玉のような瞳から涙が湧き上がり、その水は顔の土を溶かし泥になってぼたぼたと落ちてゆく。このままではいずれ崩れてしまいそうだ。
私は鞄から赤い瓶を取り出し、その粉を自分に振りかけた。キラキラした煙に包まれ私の背丈は三十センチほどになった。慎重に割れ目に降り、隙間から重たい銀のものを引っ張り出す。それは記念硬貨のようだった。美しい女性の横顔が刻印された銀貨を両手で転がしていくと土男は涙でぐずぐずになった指でそれを摘み上げた。よほど大切なものなのだろう。彼にとっては麦の一粒のようなそれを、目の前にかざして愛おしそうに眺めている。私はなんとか割れ目から上って瓶の効力が切れるのを待った。体が元のサイズに戻ると私は尋ねた。
「町はどっちにある?」
土の男は少し考えるように間を空けてから私の背後を指さした。
土男が指した方角はずっと林だった。本当に町があるのか訝りながらしばらく歩いていくと、木々の隙間に扉があるのを見つけた。建物はなく、ただ青い木製の扉だけが木立の中に立っている。扉の裏側に回ってみても変化はなかった。一応ノックしてみる。反応はない。木漏れ日は斜めに差してその色は濃さを増している。日暮が近い。夜になる前に町を見つけなければ。私は扉の取手に手をかけて、一息に引いた。体に風が吹きつけた。その風は柔らかく、ほのかに甘い匂いがした。扉の向こうは林ではなかった。そこはどこかの高台で、小さな白っぽい町が眼下に見えた。夕日に照らされた町には天気雨が降っていて、それはまるでピンクの雨のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます