Bacon, Egg & Two Beer Cans(全12話)
くまべっち
第1話
ふざけんじゃねえよ。
月曜日は週の始まり。だけど、気分よく迎えられる人間なんてそうはいない。
ミルクぐらい、ちゃんと買っておけってんだ。
たまたまミルクが切れていて、買いに行かなければならない使命感に駆られたら、人は、最低限度の服を着て、靴を履き、ドアを開け、鍵を閉め、外出する。当たり前の行動だし、何もおかしくない。駅前まで行くと、コンビニがある。駅には、これから出勤するんだろう人たちが、ぞろぞろと吸い込まれるようにして進んでいく。何が楽しいんだ。
だいたい、メインレースで落馬とか、ありえるか?
コンビニで、ミルクを買う。ドラッグストアで買うより高いけど、早朝でまだ開店してないから、仕方ない。袋に入れてもらい、コンビニを出る。
駅前の歩道を越えて、大きめの通りに出る。横断歩道で止められる。信号が赤なら渡らない。たとえ、急ぎであっても。そもそも急ぐ用事もどこにもない。
ふわあ、眠い。夕べは、腹いせとはいえ、ちょっとやり過ぎた。集中力が足りてなかったおかげで、ランクも下がった。帰ったら寝直そう。寝たら、もう一度だ。
出がけに、なんとなく付けていたテレビでは、どの局も、「週の始まり、爽やかですね。気分よく今週一週間、頑張りましょう!」と、無責任に愛想を振りまくふわふわしたアナウンサーしかいない。一人でいいから、「憂鬱ですね。私もです。死なない程度に頑張りましょう」とか言ってみろってんだ。
三番人気を軸にしたせいで、スタート二秒で全部終わりなんて、アホらしくてアホらしくて。躓いて、騎手が落馬して、終わり。もちろん、返金対象にもならない。
こんな気分で迎える月曜日が、爽やかなわけがないだろう。
目の前を、駅の方角に向かって走る、スーツ姿の女性がいた。
そしてその人が、信号無視をして交差点に突入するのを見かけたとしても、きっと何もしない。天気がいい日は何かが起きる。女性は寝坊したのかもしれない。スマホ片手に走っている。たまたま急いでいたのかもしれない。
三番人気だぞ? 三・四倍だぞ? 落馬するかぁ? まだムカムカする。おかげで、口座に入ってたお金も、すっからかんだ。今月の入金、どうしよう?
交差方向から、トラックが走ってきた。もちろん、交差方向の信号は青。飛び出す方が悪い。歩道の真ん中で、立ちすくむ女性の姿を見たとき、そう、天気がよかった。
だから、何かが起きるのはこんな天気の日だったっけ。
キキキキーーーーッ!
トラックのブレーキ音が、辺りに響き渡った。
考えたわけじゃない。いつの間にか飛び込んで、女性を突き飛ばしていた。
AがBを突き飛ばされたら、位置が移動する。Bは移動し、AはBのいた位置へ。
本来、Bを突き飛ばすはずだったトラックは、律儀にBを追いかける。なんてことあるわけがない。当然、Bに代わって、Aに突進。そして——
ドカン!
衝突。
「あ!」
全身に、これまでの人生で体験したことのない、まさに死ぬほどの衝撃を受けながら、俺は、なぜか冷静に周りを見ていた。
飛び込んできた女性(Bのこと)が、落としたスマホを気にしているのが分かった。そっちかよ。もう一人、知り合いらしき女性が、駆け寄ってきた。スマホを拾う。そっちかよ。
月曜日には、ろくなことが起きない。俺(Aのこと)は、トラックに吹っ飛ばされた。ミルクの入ったコンビニの袋なんて、何十m飛んでいったか、見当も付かない。
痛い。
火山地帯の平原を、勇者イグアスが走っていた。
その後を追って、戦士見習いのヨセミテ、魔法使い見習いのナイア・ガラが走って追いかけていたが、走るのが苦手なのか、疲れ果てたのか、ガラが、足をもつれさせて倒れた。
「二人とも、大丈夫か!?」
先導していたイグアスが、足を止める。
「先生! もうこれ以上は、無理です! ガラは、もう体力の限界です!」
「そうなのか?」
戦士見習に介抱されている、魔法使い見習いが、キッと顔を上げて、
「大丈夫。まだ行けます」
と、強がりを言う。
「無茶言わないで。もう無理だって」
「まだ諦めたくない! そうでしょ、先生?」
まっすぐな瞳に見つめられ、そう言われたイグアスは、勇気づけるように言う。
「そうだ。まだ諦めるには早い。だけど、確かにもう限界は近いな」
イグアスは、脇腹を押さえている。そこから、血が流れている。
「すみません、私が、治癒魔法さえ覚えていれば」
「きみが気に病むことじゃない。なるべくしてなったんだ」
しかし、ガラは、気に病むことをやめようとはしない。
「全部、私のせいなんです」
「誰のせいでもない。これは、運命なんだ」
「追っ手が来ます」
後悔している暇はとりあえずなかった。
「よし。君たちは、ここにいろ」
「どうするんですか?」
「あいつらの狙いは、僕だ。僕さえ捕まえれば、何とかなるはずだ」
「違います。狙いは、先生の命です。先生を亡き者にするために、全ては用意されていたんです」
ヨセミテの指摘は、正しい。
「私たちも」
「それを言うな。言わなくていい。必要なことをやろう。ガラ、僕が合図をしたら、追っ手の方向に炎の魔法を派手にぶちかましてくれ」
「でも、もう私の魔力は残りがほぼありません。たいした威力のものは出せないと思います」
普段は強気なガラが、ここまで弱気になるのも珍しい。
「充分だ。気を逸らせればいい」
「私は何をしたらいいですか?」
「ガラを護ってあげてくれ、ヨセミテ。君たち二人が無事であること。それが、絶対条件だ」
一番大きな怪我を負っているはずのイグアスが、そう指示する。
「私は、イグアス先生の護衛をします」
「僕に護衛はいらない。理由はわかってる?」
足手まといだから、という言葉は、かろうじて飲み込んだ。
「勇者だから、です」
「そうだ。なら、僕の言うことを聞いて」
「奥様には、なんと報告すればいいですか?」
「ビクトリアには、僕は最後まで英雄だった、と伝えてくれ」
「必ず」
ヨセミテが、力強く請け合った。
「来ます!」
遠くからでもはっきり分かるほどに、ものすごい勢いで、ガイアナが走ってくる。
ガイアナは、別の国からやってきた、サムライだ。
「どこに隠れた? いい加減出てこいよー!」
ガイアナが、近隣の木々や茂みを切り倒す。刀を振る度に、周りがどんどん拓けていく。
「この辺り一帯、全部、切り拓いてもいいんだぜ? 早く出てこい、勇者イグアス!」
隠れているイグアスが、潮時を悟った。
「後は頼む」
「嫌です」
先ほど打ち合わせをしたばかりなのに、もう、ガラが否定意見を出す。
「聞き分けのないことを」
「分が悪くなったら負けて逃げろなんて教わってません」
ヨセミテにも、否定の意思が伝わってしまった。
「教えた気がする」
「戦術の基本で習ったでしょ。三十六計逃げるにしかず」
「もちろん、覚えてます。でも、まだその時じゃありません」
今じゃなくていつだって言うんだ。
「その時だよ。もう、これ以上、僕も保たない。君たちが無事ならそれでいい。生きろ」
そう言うと、イグアスが、隠れていた茂みから飛び出した。
「僕はここだ!」
その声のする方向を、ガイアナが確認する。遠く離れたところで、逃げようとしている勇者の姿を、確認した。
「また追いかけっこ? ははっ、俺から逃げられると思ってんの?」
イグアスが、ガイアナから走って逃げようとするが、ガイアナの足は速く、すぐに追いつかれてしまう。ガイアナが、イグアスの後を追い、むしろ一気に抜き去り、前方に回り込んでから、行く手を塞ぐ。鷹揚に腰にぶら下げた鞘から刀を抜く。
「勇者イグアス。そろそろ決着を付けようよ」
刀を構える。
「お手柔らかに」
イグアスも、剣を抜いて構える。
「ダメだね」
言うが早いか、ガイアナが、一瞬で間合いを詰めて、イグアスに斬りかかる。イグアスが、間一髪で避ける。体勢を崩したイグアスに、ガイアナが二撃、三撃と打ち込むが、イグアスが、ぎりぎり剣で受ける。イグアスは、呼吸が荒くなってきている。
「俺の剣を受けるなんて。やるじゃない」
「お褒めにあずかり光栄だよ」
「やっぱり、元勇者なだけあるわ。二〇年前とは言え」
「年寄り相手なんだから、もうちょっと手加減してくれよ」
自嘲気味に言う。勇者と呼ばれようが、全盛期は一体いつのことだ?
「冗談でしょ。どこが年寄りだよ。ふざけんな。こんなに楽しい勝負、なかなかないんだから、もっともっと、本気でいくよ」
「とっくの昔にこっちは本気だよ」
イグアスの額に、冷や汗がにじんだ。
ガイアナが、イグアスに斬りかかる。
三合四合と撃ち合い、イグアスが次第に気圧されていく。
「やあっ!」
ガイアナが、イグアスの剣を弾き飛ばす。ところがその瞬間、イグアスが、口笛を吹く。茂みから機をうかがっていたガラが、口笛を合図に、炎の魔法をガイアナに向けて放つ。不意を突かれたガイアナが、炎に包まれる。
その隙に、イグアスが逃げる。
「裏切ったな! 魔法使いが!」
イグアスが、崖の方角に向かって逃げる。イグアスに、炎を振り払ったガイアナが刀を投げつける。刀がイグアスの足に到達し、切りつける。イグアスが、体勢を崩す。
そのまま、崖から転落する。転落しながら、イグアスは、なんとか体制を立て直し、そのまま崖を駆け下りて、崖下を通る、隣国に繋がる街道を走り抜けようとする。
そこに、王宮にいるはずのハバスが乗った馬車が走り込んできた。猛スピードで。
ガラが、とっさに魔法を唱える。
「危ない!」
馬車に乗っていた従者ハバスが声を発するが、トップスピードで走り続ける馬は急には止まれない。ハバスが、力一杯手綱を引き絞る。その力が、馬に伝わる。
ヒヒヒヒーーーーン!
いななきが響き渡る。しかし、馬車は止まれない。スピードが落ちない。
最大速度のまま、崖から転げ落ちてきたイグアスにぶつかる。
ドカン!
イグアスの身体は、その全身を馬車の前にさらし、轢かれてしまった。
馬車の荷台から、牛のミルクを入れた缶が飛び出した。
トラックに轢かれた瞬間、なぜか頭に異世界の風景が広がった。
すわ、これが噂に名高い異世界転生か! と思ったが、ゾーン状態なのか、長いこと空中に静止していた感覚に陥った。その時に見た妄想の中で、勇者と呼ばれる男が馬車に轢かれていた。
妄想の中では馬車に轢かれたが、現実ではトラックに轢かれていた。せっかくいろいろ考える時間があるんだから、吹っ飛ばされながら、助かる方法はないかとしばし考えてみたが、無理だった。この状況から助かるわけがない。奇蹟なんてない。
何も思いつかない。何も思いつかなかったが、アスファルトの道路へたたきつけられた衝撃は、思ったほどではなかったらしい。痛みはなく、ただ、意識の感覚だけがあった。とりあえず、即死ではないみたいだ。
周囲では、トラックのブレーキ音と、ぶつかった衝撃の音がすごかったため、近隣住民が、救急車とパトカーを呼んでいた。けたたましいサイレン音が響く。
倒れている俺のそばに、事故の原因であるスーツ姿の女性が、やってきた。やっと、スマホ以外にも目を向けてくれたらしい。遅えよ。
交差点は、騒然となっていた。
当たり前だ。人が一人トラックに轢かれたんだから。とはいえ、実際には、俺は何の怪我もしていなかったようだった。いや、軽い擦り傷や打ち身はあったが、それ以外では何も問題がなかった。そりゃ痛みもないわな。
事故の原因の女性が、何度も何度も、俺に謝ってくる。
「大丈夫ですか!?」
第一声がそれだったが、車に轢かれて大丈夫だと思えるなら、たいした常識的判断力だ。
だけど、俺の身体は反応しない。ピクリとも動かない。このまま抱きついてもらって、優しくしてもらえるかと期待したが、俺が動かないのを見て、女性は声をかけるのをやめた。
女性は、同じくスーツ姿の女性と二人で慰め合い始めて、結果、俺が放置されている。お互いに手を握りしめ合って、声を掛け合ってて、仲が良さそうだ。いいことだ。
「どうしよう。どうしたらいい?」
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
「でも、この人、死んじゃったら……」
「それでも、私が付いてるから大丈夫」
お互いにお互いを心配しているのはわかるが、できれば、俺の心配をしてくれると嬉しい。
俺が、うめきながら起き始めた。焦点が合わないのか、周りをキョロキョロと眺めている。自分の身体を確認している。まるで、どこかに刀傷でもあるのではないかと探っているようだった。
そう、さっきの、幻の異世界で起きていた事柄みたいに。
「……生きてる?」
そう言う俺の声を聞いて、二人の女性が、とりあえず生きていることに安堵して泣きながら喜ぶ。
生きててよかったよ。
しかし、ちょっと待て。
「一体何がどうなって……ここは一体どこだ?」
トラックに轢かれて、今、意識を取り戻したところだ。
その現実認識をよそに、俺は、俺の身体は、慌てて辺りをキョロキョロと見回す。
まるで、そう。まるで、自分が元いた世界ではないところにやってきたみたいに。
まったく状況が飲み込めていないようなので、俺から説明しておこう。
俺の名前は、球磨川竜也。トラックに轢かれたショックで、なぜか意識が飛んでしまっているが、どうやら、俺の姿をした身体には、別の精神が入り込んでいるようだ。
そいつの名前は、勇者イグアス。さっきの幻で見た、追われていた勇者。あいつだ。
その勇者が、俺の身体の中に入っている。
「ここは、どこだ?」
ここは、東京。もう一度名乗ろう。
俺の名前は、球磨川竜也。三八歳、無職。
そして、勇者イグアス(同じく三八歳)は、異世界で馬車に轢かれたショックで、この現実世界という、イグアスにとっては異世界の、俺という無職に、転生してしまった。
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