File54 ノンコと静香

 空気の失われた室内を、別の気体が満たすように、邪悪な何かが大島ノンコから溢れ出して部屋の中に充満する。

 

 それは肺胞の中でヘモグロビンと結びつき、全身に恐怖と絶望を運んで行った。

 

 まるで一酸化炭素やシアン化合物のように、ヘモグロビンから離脱しない邪悪な何かは、僕らの体の自由を奪って、やがて意識も命も奪ってしまうだろう。

 

 僕は無理やり首を動かし星崎の方を見た。

 

 逃げないと……

 

 その一心で彼女の手に手を伸ばす。

 

 すると彼女はあろうことか、僕のその手を跳ね除けて言った。

 

「空野が大島ノンコを疑ったせい……! 彼女は善良な宇宙人だった……!」

 

「はあ⁉ そんなわけないだろ……⁉現にヤバいことになってるじゃんか……!」

 

「大島ノンコはおそらく静香を封印していた……それを空野が呼び出した……! 空野がビビりなせいで化け物が出てきた……!」


 ジクジクと邪悪なガスが神経を蝕む気配がした。


 それは沸々と怒りに変わり、冷たい殺意になって凝固していくようだった。

 


 その時大島ノンコが呻き声を上げながら自分の体を抱きしめた。

 

 まるで何かに抗うように、彼女は歯を食いしばっている。

 

「に……げ……て……ケンカしちゃだめ……に……に……に……」


 その言葉と同時に、邪悪な何かがフッ……と弱まるのを感じて、僕らは互いに顔を見合わせる。

 

「星崎……! 逃げるぞ……!」

 

「空野待って……大島ノンコ……! 助かる方法はある……?」

 

 星崎は僕に手を引かれながらもその場に留まり大声で叫んだ。

 

 大島ノンコはにっこりと笑ってそれに答える。

 

「ま……た……会える……に……ややややあぁややややゃあ……‼」

 

 天井を仰いだ大島ノンコが絶叫する。

 

 僕は無理やり星崎を引っ張り出口へと走った。

 

 背後では激しく痙攣する大島ノンコが禍々しい気配を放っていた。

 

 ぎょろり……とその目が僕たちを捉える。

 

 瞬間的に理解した。

 

 あれが…………

 

 僕はすぐさま扉を閉めて鍵をかけた。

 

 いまだに後ろを気にしながら走る星崎にイラつきながら、僕は全力で地上を目指す。

 

『逃がさない……』 

 

 頭の中で声がした。

 

 それと同時に、壁がメリメリメリメリ……と音を立て、まるでミミズのような、あるいは血管のような赤黒い触手が無数に浮かび上がってきた。

 

 まるで大島静香の体内に入ったような……そんなイメージが浮かんで消える。

 

 今はとにかく地上へ……!

 

 どうやら星崎も気持ちを切り替えたらしい。

 

 今は前だけを見て全力で足を動かしている。

 

 しかし触手は、そんな僕らを追い越して階段に到達した。

 

 ぐじゃ……うじゅる……ぐじゃ……!

 

 まるで蜘蛛の巣を張るように、触手同士が絡まりあって階段の入り口を塞いでしまう。

 

 そしてまたしても、頭の中で声がした。

 

『ニンゲンは赦さない……こんな目に合わせた病院も……企てた張本人も……無視したその他全員も……みんな赦さない……!』

 

「空野……! ボイラー室に……!」

 

 その言葉で僕は階段を横切り、ボイラー室に走った。

 

 しかしすぐに思い出して口走る。

 

「でも……中には大塔と大倉沙穂が……!」

 

「ボイラー室には鍵がかかってた……! 大塔は別の入り口から中に入った可能性がある……!」

 

「また可能性かよ……!」

 

「このままじゃ可能性すらない……取るべきリスク……!」

 

 その通りだった。

 

 僕はアキレス腱が切れるんじゃないかと思うぐらい、全力で走った。

 

 階段を素通りした僕らを、またしても触手が追ってくる。

 

「ハァハァ……も……う……限界……! 速度を……落として……」

 

「馬鹿か……!? こんなところで諦めるなよ……!?」

 

 そう言いながら僕らはちらりと後ろを見た。

 

 触手は先端についた口を、ぐぁぱぁ……と開いて、びっしりと生えた牙を涎で光らせながら僕らのすぐ後ろに迫っている。

 

 その先端が、星崎のスカートと、僕のズボンの一部に届き、ジュ……と溶ける音がした。

 

「わぁあああああああ……‼」

「ぎゃぁああああああ……‼」

 

 星崎もどうやら火が付いたらしく、僕にも劣らないほどの速さで走り始める。

 

 僕らはボイラー室に飛び込むと、辺りを見渡して出口を探した。

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