File41 ぽぉおおンと指
少女は指を咥えていた。
一本や二本ではない。
全ての指を口に詰め込みグニグニと噛みしめて笑っている。
ぽたぽたと床に滴った唾液を見て、そちらに気を取られそうになるのを堪えながら、僕は少女の出方を窺った。
襲い掛かってくる様子は無い……
かと言って安全だとは微塵も思えない……
何を考えているのか全くわからない相手を前に、僕は壁に張り付くような格好で距離を取ろうと一歩踏み出した。
「ポぉおおン……!」
少女が大声を上げた。
それと同時に僕の顔のすぐ脇の壁に何かが突き刺さった。
シュゥゥゥ……と煙をあげるその場所を見ると、そこには一本の指が突き刺さっていた。
「うぁああああああ……⁉」
思わず腰を抜かした僕を見て、少女がケタケタと笑い声をあげる。
パンパンと打ち鳴らす左手には、人差し指が無かった。
やばいやばいやばい……
絶対にヤバい……‼
こいつ、自分の指を噛み切って、それを高速で吐き出したのか⁉
そんなゾンビを僕は知らない。
ゾンビとは知能が低く、動きが鈍い。
絶対にそうあるべきだ……!
それがゾンビだ……!
異論は認めない……!
パニックになって訳の分からない持論を展開する僕に向かって、少女はキュルキュルと車輪を回しながら近づいてきた。
一気に頭から血の気が引いた。
冷静になると、見えていなかったことがクリアに見える。
たとえば少女の左目の下には泣きぼくろがあること。
胸に付けられた名札には『
爪には何かを掻きむしったのか、黒い汚れがびっしりと詰まっている。
でも、だから何だというのだろう?
ダメだ……もう死んだ。
諦めてしまった思考とは裏腹に、心臓は爆発しそうなくらい激しく脈打っている。
それはつまり、体はすごく生きたがっているということで……
『それは空野が死ぬということの恐ろしさを分かっていないから言える言葉だよ』
今ならあの言葉の意味が分かる気がする。
世界が滅亡するというのは自分も死ぬということで、きっと死に方は選べない。
それがどんなに恐ろしい死に方だったとしても……
僕に残された出来ることと言えば、この化け物に大人しく殺されて、星崎が逃げる隙をつくることくらいだった。
ベッドの下に気が付きませんように……
そう考えると、僕は信じてもいない神様に祈っていた。
「空野……! 走って……!」
その時、星崎の声がした。
なんで……? どうして……?
隠れていれば星崎だけは逃げ切れたかもしれないのに、なぜ⁉
目についたのは、モップの柄をベッドの下から突き出す星崎の姿と、力強い目の光だった。
瞬間的に意図を理解して、僕は全力で地面を蹴った。
逃がすまいと少女はすかさず車輪を回す。
それと同時に、車輪の
ガツン……! と鈍い音が響き、次いでガシャァァアンと車椅子が前のめりに倒れる音がした。
ベッドの下から這い出した星崎の手を握り、僕は部屋を飛び出した。
チラリと見ると、あの少女がやったのだろう……扉の鍵は壊れている。
閉じ込めるのを早々に諦め、僕らは階段に走った。
病室からは凄まじい怒りの咆哮が響き渡り、わんわん……と廊下に反響していた。
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