宇宙猫は今日も宇宙(ソラ)に向かってアンテナを延ばす

深川我無

File1 ソロモンと少年

 鬱陶しい……


 熱気と湿気が充満する教室も、そこに木霊するかしましい女子たちの声も、下品な男子たちの笑い声も、何もかもが鬱陶しい。


 空野悠太そらのゆうたは小さなため息をつくと頬杖をついたまま窓の外に視線を移した。


 もう下校時間を二十分も過ぎている。

 

 それだというのに担任は遅々としてやって来ない。


 子どもの時間を軽んじているのではないかと思い腹が立ったが、考えてみれば帰ってしたいことが特段あるわけでもない


 仕事以外に趣味もなく、社畜として会社に縛られる自分の姿を想像して僕は再びため息をついた。


 この世界は全くもって無意味な世界だ。確かソロモンもそんなことを言っていた気がする。

 

 そう。伝道者の書だ。


『人には食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見出すよりほかに何も良いことがない。これもまた神の御手によることがわかった』


 くだらない。


 もし仮に神がいて、人の運命をあらかじめ決めているとしたら、いったい人生に何の意味があるというのだろう?


 全くもってくだらない。


 僕はどうでもよくなって一人席から立ち上がったが、誰もそんなことに目をとめる者はいなかった。


 学生カバンを担いで後ろの扉から教室を出る。


 家に帰るか悩んだ挙げ句、僕は何のためにあるのかもわからないの方に足を向けた。


 古い資料ばかりでかび臭く、自習スペースもほとんどない。


 そのうえそこは口うるさい司書の爺さんが管理していて生徒たちは誰も寄り付かない。


 そんな第二図書室は僕にとって格好の秘密基地だった。


 聖書も、古事記も、スッタニパータもこの場所で読破した。


 本を読んでさえいれば、爺さんは何も言わない。


 剥げかけた緑のペンキで塗られた建付けの悪い扉をキィィ……と開くと、いつものように爺さんはチラとこちらを一瞥しただけでやはり挨拶も何も言わなかった。


 部屋に一つしかない四人がけのテーブルに鞄を置き、めぼしい本を探しに本棚の峡谷に体を滑り込ませる。

 なんとなくコーランには惹かれない。日本史か風土記あたりに範囲を広げてみようか?


 そんなことを考えながら背表紙を睨んでいると、入口の方からキィィ……と扉の開く音がした。


 誰か来た? それとも爺さんが出ていった?


 なんとなく緊張しながら気配を伺っていると、パタ……パタ……と上履きの足音が近づいてくる。

 音の主はどうやら今見ている棚の向こう側の通路に入ったらしい。


 馬鹿馬鹿しい……どうして僕が緊張する必要があるんだ……


 僕は再び背表紙に意識を集中した。

 本を手に取り、パラパラと中をめくる。

 文語体で書かれたその本は流石に苦労しそうだった。

 本を元の場所に戻し奥へと進む。 


 ぱた……ぱた…… 

 パタ……パタ……


 自分の足音に重なって、向こう側から足音がした。

 なぜか再び緊張が走った。


 夕刻の西日が図書室の物品に長い影をつくっている。

 そこかしこに生まれた明暗が、こちら側とあちら側を隔てているような気がした。


 しかしそれも、やがてすべて闇に呑まれて、蛍光灯が作り出す人工の頼りない光だけが闇に抗う時刻になるだろう。

 そうなれば、ここはきっと、あちら側の領域テリトリーになってしまう。


 僕はいつしかゴクリと唾を呑んでいた。


 不吉な妄想を振り払うように、あるいは確かめるように、ゆっくりと一歩足を踏み出す。


 ぱた……

 パタ……


 悲鳴が出そうになるのをなんとか堪えて固まっていると、ゆっくり……ゆっくりと、目線の先にあった分厚い本がぎこちなく動くのが目にとまった。


 背表紙には『秘密教義』と書かれている。その本が突然、ヒュッ……っと向こう側に吸い込まれた。


 思わずそこに出来上がった空白を覗き込むと、そこにはジロリとこちらを睨む、一つの目玉が浮かんでいた。


「ひっ……」

「静かに……」


 目玉はこちらを睨んだまま囁くように言った。


「誰……? 人間?」


 間抜けな質問をする僕を無視して目玉は左右を確認するような素振りを見せてから、押し殺した真剣そのものな声でこう言った。


「ねえ知ってる……? 宇宙猫は今日も地球の平和を守ってるんだよ?」

「は……?」


 これが、僕と電波少女、星崎ほしざきの初めて交わした言葉だった。

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