第25話 うそのようなホントの話
ここから先の話は伝聞だ。
私は見ていないので、完全の状況を再現できているかどうか、必ずしも自信はない。
バンがうちを訪れてから数日。
滝と紅葉の写真を撮るために山に入った若い女性が。ヒグマのダンガーに襲われた。
これ、普通は詰みである。
人間の足でヒグマから逃げるのは難しい。不可能だと断言してしまっても問題ないほどだ。
もちろん戦うなど論外。日本に生息するなかで最大級の大きさを誇るヒグマに、素手の人間が勝てるわけがない。
前肢の一撃で人間の頭なんか、ぽーんと飛んでっちゃうよ。
まさに絶体絶命のピンチだったんだけど、女性の前に救世主が現れた。
なんと、エゾシカである。
尻餅をついている女性を、立派な角で掬い上げ、自らの背に跨がらせると一目散に駆けだした。
この牡鹿がバン。
一瞬、何が起きたのか判らずに硬直したダンガーたったが、猛然と追い始めた。
野生の掟にもとる獲物の横取り。
ダンガーとしては大激怒だったろう。
足の速さならヒグマよりエゾシカの方が勝っているのだが、背中に荷物を積んだ状態である。
普通ならすぐに追いつかれてしまう。
しかしバンは違った。影走りという異名に恥じない走りっぷりで、ダンガーに差を詰めさせない。
命をかけた追いかけっこは、十五分ほども続いたらしいよ。
バンの背に乗った女性は必死にカメラを操って、追いかけてくるダンガーを取り続けた。
食われるにしても、自分が誰に殺されたのか絶対に伝えてやるって覚悟だったらしい。
その結果、大変に貴重で迫力のある映像が撮れた。目を剥き、牙をぬめらせ、涎をまき散らしながら迫ってくるヒグマである。怪獣映画なんて目じゃないほどの怖ろしさで、女性はなんとかいう動画の賞を獲ったらしいが、それはまた別の話。
女性を乗せたままバンは、それなりに交通量のある道路へと飛び出した。
これこそか私が彼に授けた策である。
時速六十キロとか七十キロで走っている自動車にぶつかられたらヒグマだってただでは済まない。
ていうかほぼ死ぬだろう。
タンガーが人間を襲おうとしたタイミングで横槍を入れ、怒りに我を忘れさせて道路まで誘い込むのだ。
追いつかれたらアウト。人間をかすめとることができなくてもアウトっていうかなり賭博性の高い作戦だったけど、結果は吉と出た。
若い女性を乗せたエゾシカが逃げ、その後ろを巨大なヒグマが追いかけている。
通りかかったトラックドライバーが見かけたのは、そんなファンタジーじみた光景だった。
「映画かなにかの撮影じゃないかと思いましたが、シカと女性の必死な顔を見て、これはやばいと思いました。ヒグマとの距離だって五メートルもなかったですし」
とは、後になってテレビのインタビューに応えたときの言葉である。
彼は四トントラックのハンドルを握りしめ、ブレーキではなくアクセルを踏み込んだ。
車体を武器として使うために。
次の瞬間、国道に轟音が鳴りひびいた。
衝突音、トラックのバンパーがひしゃげる音、そしてダンガーが十メートル以上も吹き飛び、頭からアスファルトに叩きつけられる音である。
ほぼ即死だった。
その後、バンは女性の頬に鼻先をすり寄せ、感謝のハグをもらったあとで山へと帰っていった。
エゾシカに助けられた女性と、果敢にもヒグマに突撃したトラックドライバーは、一躍時の人となりニュース番組や新聞などの取材も受けた。もちろん賞賛の声ばかりではなく、ヒグマを殺したことへの非難もあったが。
ただまあ、現実的に女性は追われていて、他に助ける手段はなかったわけで、トラックドライバーは非難よりずっと多くの賞賛を受けた。
所属する会社からもお咎めなし、それどころか北海道警察から感謝状までもらえたらしい。
女性の方は、エゾシカの背中に乗るというものすごく珍しい体験と、大迫力のヒグマ動画によって、動画投稿サイトをかなり賑わした。
ただ、もう山の中には入りたくないとコメントしているのだそうだ。助けてくれた鹿さんとはもう一度会いたいけれど、と。
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