第2話 清純派を演じる悪女

吾郎が家を出ると、外の世界は穏やかで平和そのものだった。

だが、彼には分かっていた。あと一ヶ月もすれば、このすべてが無に帰すのだと。住んでいるマンションを出て、そそくさと近所のミシュラン三つ星レストランへ向かった。


このレストランの近くに長年住んでいながら、一度も足を踏み入れたことはなかった。これまでの吾郎にとっては、一度の食事で数ヶ月分の給料を使うなど、到底考えられないことだった。


それは、普通のサラリーマンである彼の生活には不釣り合いな贅沢だったからだ。


しかし、今の彼にはもうどうでもよかった。


レストランに入ると、窓際の席を選び、メニューの中から一番高価な料理を片っ端から注文し、さらに高級ワインを一本頼んだ。その食事代は、なんと86万にも及んだ。レストランの女性スタッフでさえ、吾郎の金遣いに富裕層の坊ちゃんか何かだと思ったのか、少し色めいた視線を向けていた。


一般人が、一食でこんなに贅沢することは、まずないだろうからだ。


しかし吾郎は知っていた。もうすぐ、この世界のお金はただの紙切れと化し、「富」という概念は生活物資で決まることになる。


豪華な料理がテーブルに並ぶと、吾郎は夢中で食べ始めた。半年間の極寒の世界の終わりを経験した身として、この美食の数々は涙が出そうなほどの感動を与えてくれた。そのせいか、その食べ方は少し粗雑でマナーを度外視していて、周囲の客たちもざわついていたが、彼は全く気にしなかった。


終末が訪れれば、人々はインスタントラーメン一袋を得るために地面に額を擦りつけることすら躊躇わなくなる。そんなとき、文明や倫理など全てが無に帰すのだ。


吾郎が食事にがっついていた時、窓の外を歩いていた一人の女性が足を止めた。それは、長い髪を風になびかせ、艶やかな化粧を施し、ハイブランドの服を纏った女性だった。彼女は——前世で吾郎を裏切り、死に追いやった張本人、水倉梓だった。その隣には、彼女の親友である河内雅香が寄り添っていた。


二人とも、このミシュラン三つ星レストランの前を通るたびに、必ず店内を見やる。彼女たちにとって、このような高級な場での食事は常に憧れだったが、残念ながら手持ちの金では到底贅沢することはできない。


それでも、どこかにハイスペックな富豪がいないかと、物色する目を店内に向けることだけは欠かさない。そして、梓は店内で食事を楽しむ吾郎の姿を見つけ、驚愕した。


「えっ、あれ吾郎じゃない?どうしてこんな高級レストランで食事してるのよ?」

梓が驚きの声を上げると、隣の雅香も口を手で覆って言った。


「吾郎って、こんなにお金持ちだったの?」

彼女は、少し意味ありげな視線を梓に向けて笑った。


「梓、あなた運がいいわね!あの子、実は隠れ富豪だったんじゃない?」


「見てよ、あのテーブルの料理、百万円近いじゃない。普通の人がこんな食事できるわけないでしょ。」


雅香の口調には羨望の色があった。


彼女は知っていた。吾郎は半年以上も梓に好意を伝えてきたが、梓はあえて引き止めておき、受け入れも拒絶もしない曖昧な態度を続けていたことを。


梓は、典型的な拝金女子であった。自分には上層階級の金持ちと結婚し、人生を満喫する資格があると思っていた。一方で、東京で家と車を持つ吾郎というしがないサラリーマンではあるが、それを手放すのも惜しいと感じ、ずっと予備軍の一員としてキープしてきたのだ。


だが、吾郎が一人で数十万円の豪華なディナーを楽しんでいる姿を目にし、彼女の心に疑念が生じた。


「もしかして、吾郎って実は隠れ富豪だったんじゃ……?」


梓は顎に手を当て、考え始めた。そして思えば思うほど、その可能性が現実味を帯びてくるように感じた。


「そうだ、ドラマでもよくいるじゃない、そういう人。」


「実は金持ちなのに、相手に本当の愛があるか探すために普通の人を装ってるとか……」


そう考えると、なんだか自分の話に信憑性を感じ始めた梓は、目を輝かせた。もしそれが本当であれば、自分は大いに手間を省ける。吾郎はずっと自分を想いを寄せているのだから、頷きさえすれば、すぐにでもゴールインするはずだ。


「梓、彼に会いに行こうよ!」

雅香も説得し始めた。


彼女の場合、純粋にテーブルいっぱいの豪華な料理を狙っているだけだった。なにしろ、ミシュラン三つ星レストランの食事など、普通の人が一生に何度も食べられないものだ。


梓は一瞬悩んだが、首を横に振った。


「それはダメ。そうしたら彼に、私が金目当ての女だと思われちゃうでしょ。」


「こうしよう、外で待って偶然を装って声をかけるわ。」


梓は決して愚かではなかった。たった一食だけのために、吾郎をマウントの優位に立たせるつもりはなかったのだ。たとえ金持ちだったとしても、自分は憧れのマドンナである立場を決して崩さない。そうすれば、将来二人が一緒になったときも、吾郎をいろいろと支配できるはずだと考えたのである。


二人は、レストランの少し離れた場所に身を隠し、吾郎が出てくるのを待った。一時間以上かけて食事を楽しんだ吾郎は、満腹の腹をさすりながら、次の行動を考え、近くのスーパーでいろいろと購入して帰ろうと考えた。


IEONの倉庫から物資を持ち出す計画には絶対の自信があるものの、念には念を入れるべきだ。もうすぐ訪れる終末を考えれば、いくら準備してもしすぎることはない。飢えを知る者として、どんな小さなミスも見逃すことはできないのだ。


吾郎は満足げに会計を済ませ、店員の笑顔に見送られてレストランの外へ出た。その瞬間、聞き覚えのある声が響いた。


「吾郎くん、偶然ね!」


吾郎が振り向くと、そこには梓と雅香が立っていた。


梓は髪を耳の後ろにかき上げ、白くなめらかな首筋と薄桃色の耳たぶをちらりと見せるような仕草をした。男を惹きつけるためのあまりにも典型的な仕草に、吾郎は心の中で冷笑した。


梓は清楚で誰にでも優しく接するが、実は計算高い女だ。このような術を熟知していたのだ。だが、今の吾郎はもはや昔の無垢なサラリーマンではなかった。何しろ彼は、つい最近までこの女に裏切られ、命を落としたばかりなのだから。そして、共に過ごした愛猫「ミキ」まで犠牲にされた。


吾郎の視線は鋭く冷たくなり、梓に向けられた。


彼女はその冷たい目に息を飲み、震えながら言った。


「吾郎くん……どうしたの?」


「いや、何でもない」

吾郎はすぐに目を和らげ、淡々と答えた。


だが、一瞬だけだが、彼の中では彼女への殺意が湧いていた。目の前で愛猫「ミキ」を解体し、その後に自分を殺したこの女は決して許されるべきではない。だが、その考えをすぐに打ち消した。吾郎は彼女に“お返し”する方法を思いついたのだ。


世界の終わりを体験させ、骨の髄まで絶望を感じさせてやればいい。復讐の準備を進めるのに、今の彼には時間が十分にあったし、前世の記憶がある今なら、彼女を死よりも恐ろしい目に遭わせる方法などいくらでも考えつく。


だから今は、手を下す必要もない。


最も最優先すべきは、世界の終わりでも自分が安全で快適に生き残るための避難所を築くことだった。

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