☕琥珀色のアムリタ☕

 手先の器用さと料理の腕は人並み外れた兵太郎。食べる速さも人並み以上。


 初めて食べる兵太郎のご飯に、おもわずがっついてしまったクロよりも早く食べ終わると、再びカウンターへと戻ります。


 長い注ぎ口のついた奇妙な薬缶ケトルをコンロにかけると、棚から茶色の豆がぎっしり詰まったガラス容器を取り出しました。


 がらりと硬い音を立て、茶色の豆が大きな取っ手のついた挽き臼ミルへと投入されます。



 ごりごりごり。



 硬い豆が砕けるくぐもった音と、溢れだず芳醇な香り。


 そうです。兵太郎は食後の珈琲を準備しているのです。


 挽きたての珈琲豆がミルから金属製の円錐型ドリッパーに敷かれたペーパーフィルターへと移されます。


 ケトルの細い注ぎ口から湯が注がれると、漂う香りがふわりと強くなりました。



 じっくりじっくり丁寧に。



 円を掻くように湯が注がれるごとに、香りが強まり、ドリッパーの下にあるポットに抽出される琥珀色の液体が増えていきます。



 丁寧に、尚も丁寧に。



 異様なまでの手際の良さと集中力を、お湯を注ぐことだけに費やして珈琲を淹れる兵太郎を、愛情と尊敬がこもった六つの目が見守ります。


 抽出が終わって兵太郎が顔を上げると、真剣な顔でじっとこちらを見つめる三人と目が合いました。


 自分でも夢中になっていたことに気が付いて、兵太郎は照れ臭そうににへらと笑いました。


 ザラメ糖とミルクを一緒に添えて、四つの形の違うカップに注がれた珈琲が、それぞれの席へと配られます。



「クロちゃん、苦いから無理しないで、味見のつもりで飲んでみてね。きっと後から好きになるから」



 中でも一番小さいカップがクロの前に置かれました。



「さ、紅さんと藤さんもどうぞ」



 しかしクロばかりでなく、紅珠と藤葛も緊張してしまっているようです。


 紅珠も藤葛も、コーヒーを飲んだことがありません。そして珈琲を淹れている時の兵太郎があまりにも真面目な顔をしていたものだから、何か特別なものだと思ってしまったようです。



「う、うむ。いただくのじゃ」



 年長者の面目躍如といったところでしょうか。最初に動いたのは紅珠です。



 年長者らしく優雅に、香しい香りの飲み物に口をつけ……



「ぬわっ、苦いのじゃ!」



 あまりの苦さに驚いて、あわてて口を離してしまいました。せっかく兵太郎が淹れてくれたのに、これでは飲めそうにありません。珈琲とはこんなに苦いものなのでしょうか。


 申し訳ない気持ちで恐る恐る兵太郎を見ると、兵太郎ふふっといたずらっぽく笑いました。



「心配しないで。そんな難しいものじゃないから。初めてだと苦く感じるけれど、慣れると病みつきになるんだ。ミルクもお砂糖も好きなだけ入れて、無理しない程度に飲んでみてね」



 それならばと紅珠はミルクとお砂糖を加えます。



 砂糖をスプーンに一杯、まだ苦い。


 砂糖二杯とミルクを加えて、やっと飲めるようになりました。


 でもほんとはそれでもまだ苦いのです。あまりおいしいとは思えません。



 しかめっ面で珈琲を飲む紅珠に無理しないでと笑いながら兵太郎は何も入れないブラックコーヒーをおいしそうに飲んでいます。



 次にチャレンジしたのは最年少のクロでした。


 若さゆえのチャレンジスピリットなのでしょうか。


 一番小さなカップに淹れらた珈琲をおそるおそる一口、いえ一舐め。



「苦いっ!」



 凄まじい苦みにきゅわんと声を上げて、慌てて口から離します。本当に飲んでいいものなのかと心配になるほど。


 でも兵太郎はおいしそうに飲んでいます。


 小さなカップにお砂糖二杯とたっぷりのミルク。なんだかずいぶんと色が薄くなった珈琲に、クロは再び挑みます。



「苦いっ!」



 きゃわん!


 どれだけ甘くしたところで、苦みが消えるわけではありません。苦いものは苦いのです。


「兵太郎ごめんなさい。ボクには無理なようです」



 しおしおと項垂れるクロを、兵太郎が宥めます。



「無理しないで。さっきも言ったけど、頑張って飲むようなものじゃないんだ」


「兵太郎はこんなに苦いものが飲めて凄いです」



 兵太郎は思わず吹き出しました。



「違うんだよ、クロちゃん。苦いものが飲むのは凄いことじゃないんだ。僕は頑張っているわけじゃないんだよ」


「そうなのですか? 頑張らなくても飲めるなんて、兵太郎はやっぱりすごいです」



 クロにかかれば兵太郎のことなら何でも凄いことになってしまうのでした。



「ボクも兵太郎みたいに苦いものが飲めるようになりたいです」


「すぐにクロちゃんも飲めるようになるよ」


「そうなのですか?」


「うん。もしかしたら今日中かもしれないよ?」



 なんだか予言めいたことを言って、兵太郎はにへらと笑ったのでした。



 さて最後は藤葛。



 先の二人の反応を見ていた藤葛がに恐る恐る口をつけてみると、確かに舌を刺すような苦み。でも我慢できないほどではありません。


 もう一口。もう一口、さらにもう一口。



 あれ?



「藤さんも無理しないでね。我慢して飲むようなものじゃないからさ」


「ええ、その。確かに苦いのですけれど」



 もう一口、もう一口。


 確かに苦い。でもその奥にある不思議な味わい。すっきりとした後味とかすかに残る渋み、もしかしたらこれは、おいしいのでは?


 それだけではありません。一口飲むごとに、不思議な感覚が沸き上がってきます。妖力が回復するのはもちろんですが、それともまた違う心が浮き立つような楽しい気持ち。



「うふ、うふふ」



 なんだか笑いがこみ上げてきました。前に座っている兵太郎がなんだかいつも以上に男前に見えてきます。



「お、藤さん早かったね。珈琲の世界へようこそ」


「うふふ。ええ、ええ。兵太郎。これ、とてもおいしいですわ」



 珈琲とは実に不思議なもの。


 一度ひとたび美味と感じたならば、その苦みは噂に聞く神の飲み物アムリタのごとく、人を捕えて離しません。



「む? 貴様、酔っているのか?」



 かすかに頬を染める藤葛を紅珠は訝しんだようです。



「いえいえ。そうではないのですが。なんだかとても心地が良いのです」



 酔っているのとは違います。むしろいつも以上に頭はすっきり、思考ははっきり。


 だからこそ楽しくて仕方がない。


 愛しい旦那様が目の前にいて、この珈琲を淹れてくれたことが嬉しくて仕方がない。



「うふふ、うふふふふ。これが珈琲ですか。確かに素敵な飲み物ですわ」



 傍からは酔っているとしか思えないうっとりとした顔で兵太郎を見つめながら、藤葛は初めての珈琲を堪能します。


 そんな藤葛を見ていると、紅珠とクロもなんだか羨ましくなってきます。


 二人は意を決して、再びコーヒーカップに口を付けました。



「うにゃあああ、苦いのじゃあ」


「きゃわん、苦いですー」



 無理しないでという兵太郎の制止も聞かず、二人は甘い甘い珈琲を頑張って飲み干したのでした。

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