決して浮気をしてはしてはいけませんよ?
「さて、兵太郎が帰ってくるまでは暇じゃのう。もう一眠りしてくるか、散歩にでも行くか。どうするかのう」
「そうですか、ご自由に。出来る方の妻は家を直しておきますわね」
「えっ、ちょっ、待っ」
「兵太郎のお陰で力を取り戻したとはいえ、一度に全部は直せませんわね。何処から手を付けましょうか。ああ忙しい忙しい」
「あ、あ、儂もなんか、えっと、えっと」
******
「ええ~~?」
大型ショッピングモールからおんぼろ車を運転すること30分。
兵太郎が家に帰ってくると、なにやら出かける前とは様子が違っていました。
広さだけは十分な庭をもっさもっさと覆っていた雑草たちが、綺麗に無くなっているではありませんか。
「お前様、お帰りなさいませじゃ!」
ぽかんと口を開けて広い庭を眺める兵太郎の元に、車の音を聞きつけた紅珠が駆け寄ってきました。
「ただいま。ねえ紅さん。ちょっと見ない間に庭が……」
「うむ、綺麗になったじゃろう」
むん、と紅珠がない胸を張ります。
「うん……。っていうか綺麗っていうレベルじゃないような……」
兵太郎が驚くのも無理はありません。庭とは名ばかりの荒れ地を覆っていた草は強く硬く、根深く、ほんの小さなスペースの草をむしるのも一苦労のはずです。
兵太郎が一人でやれば、車一台分のスペースを確保するのに半日はかかるでしょう。
というか、何か大型の機械でも持ってきて土ごと入れ替えた方が早いくらいです。
この短時間で一体どうやってここまで綺麗にしたのでしょうか。
紅珠はその姿こそ見た目はまだ幼さが残る少女ですが、その実はこの山を治める土地神。
だからといってまさか草にお願いして出ていって貰ったというわけでもないでしょうに。
「お、まだ残っとるのがおるな。さあ、お前も何処ぞへと行け。ここは駐車場になるのじゃ」
兵太郎がおかしなことを考えていると、紅珠は綺麗になった庭の隅に一株残る雑草を見つけて、それに向かって話しかけました。
するとどうでしょう。雑草がまるで生き物のようにうねうねと動き始めます。
根っこを自分で土の中から引き抜いてすっくと立ち上がると、紅珠にむかって深々とお辞儀をしました。そして根っこを足代わりにひょこひょこと歩いて敷地の外の藪の中へと消えていったのでした。
「ええええ……」
流石の兵太郎もその光景にあっけにとられて雑草を見送ります。惜しかったですね。お願いじゃなく命令でした。
「ねえ紅さん。あの草は何処に行ったの?」
「うむ、半刻もすれば元の草に戻る故、さほど遠くまでは行かんじゃろな。儂の加護があればこの辺で肩身が狭い思いをすることもないじゃろし、適当に良い場所を見つけて居つくじゃろ」
「凄いんだねえ紅さんは」
「うむ。凄いのじゃ。豊穣伸扱いされとったこともあったのじゃ」
むん、と再びない胸を張る紅珠。するとそこに兵太郎のもう一人の奥さんがやってきました。
「お帰りなさいませ兵太郎。さあさあ、お風呂が沸いておりますよ」
「お風呂?」
お風呂が沸いているというのはおかしな話です。だってこの家にはお風呂がありません。そもそも昨日までは居住スペースが一切なかったのです。
兵太郎はひと月以上もの間、安アパートから通ってこの家を直していたのでした。
「ええ、ええ。気遣いができる方の妻が直しておきました」
「なっ、儂だって気遣いできるし! 見よ、この綺麗になった庭を!」
「まあ綺麗。なるほど紅さんは草むしりですか。お子様のお手伝いとしては定番ですわね」
「なんじゃとっ! 貴様偉そうに言うがやったことといえば、自分の身体を治しただけじゃろうが!」
「あら、紅さんはお入りにならないのですのね、お風呂。では兵太郎、参りましょうか」
「あ、ちょ、待て。入る。藤よ、言い過ぎた。儂も入るぞ。兵太郎、お願いじゃ。儂を……む?」
縋るように兵太郎にしがみついた紅珠でしたが、急に眉を寄せてくんくんと兵太郎のにおいをかぎ始めました。
今日はよく臭いをかがれる日です。そういえば昨日はお風呂にも入らず寝たのでした。
おとといは、その前は……。あれ? どうでしたっけ?
急に心配になってきた兵太郎でしたが、紅珠が気にしているのはどうやら兵太郎の体臭ではないようです。
「……お前様、よもや浮気はしとらんじゃろな?」
そういって兵太郎を見上げる紅珠の目は吊り上がり、口からは鋭い牙が覗き、それはそれは大層な迫力に満ちておりました。
「なんですって?」
慌てて駆け寄って来た藤葛も兵太郎に鼻を近づけるとくんくんと匂いを嗅ぎ始めます。
「これは……。まさか、まさかでございますわよね? 兵太郎?」
にっこりと笑う藤葛の目はギラギラと輝き、口は耳まで裂けており、それはもう大変な迫力を放っておりました。
こんな時の奥さんが恐ろしいのはいつの時代も変わりません。普通の男であれば身に覚えがなくても震えあがってしまう所ですが、そこは兵太郎。
「まさかあ。 紅さんと藤さんがいるのに浮気なんかしないよう」
怒れる二匹の妖怪相手に、見事に言ってのけたのでした。
「そ、そうじゃな。すまぬ、疑ったのではないのじゃ」
「え、ええ、もちろんですわ。ただのちょっとした確認ですのよ」
慌てて取り繕う大妖二匹、その顔が心持ち赤く染まっているのですから、兵太郎も大したものです。
奥さんが二人いる時点で色々とアレなのですが、そのあたりはスルーです。
誰だって第三次妖怪大戦の引き金を引いた、なんていう不名誉を負いたくはないものです。
「しかしな、お前様。その、なんじゃ。お前様から知らんケモノの臭いがするのじゃ。それは良くないのじゃ」
指摘されて兵太郎は、自分でもくんくんと自分の臭いをかいでみます。
しかし感じるものと言えば、兵太郎のすぐそばにいる二人の妖怪、紅珠の果物のような甘く心を浮き立たせるような香りと、藤葛の花のように穏やかで心をほぐすような香りばかり。
自分の臭いなんか全然わかりません。
「なんぞ、ケモノに言い寄られでもせんかったかの? あ、もちろんお前様を疑ってなどおらんのじゃぞ?」
紅珠がごしごしと自分の首や耳を兵太郎のお腹ににこすりつけ、とりあえず自分の臭いで上書きします。
兵太郎は今日あったことを思い出してみますが、もちろんそんな覚えなどありません。そもそもケモノは言い寄ったりしないものです。
「いやあ、ケモノなんて……。見かけたといえばショッピングモールを散歩してる犬くらいだったよ?」
「なるほど。これは確かに犬の臭い。風に乗ってついたのかもしれませんわね」
藤葛も後ろから兵太郎に抱き着いて、兵太郎の首に自分の首を摺り寄せて、自分のにおいをしっかり主張します。
「ううん、そうなのかなあ……?」
前後から二人の奥さんに挟まれた兵太郎はどうにも納得がいきませんが、藤葛も紅珠も妖怪です。遠くにいる犬の臭いだってわかってしまうのかもしれません。
「まあ、いずれにしても落としていただくことにいたしましょう」
「そうじゃな。風呂があってよかったわい」
兵太郎を挟んだ二人の妖怪は顔を見合わせて頷きあいました。折角施したマーキングも薄れてしまいますが、それはまた施せばよいのです。
兵太郎は早く二人にご飯を食べさせたくて仕方がないのですが、どうやらお風呂に入らずにはお話は勧められないようです。
仕方なく、藤葛が直したという浴室へと向かいました。
祠を直しただけなのにっ!? ~古民家カフェ「こくり家」へようこそ!~ 琴葉 刀火 @Kotonoha_Touka
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