第三十話「わたしの、おにいちゃん」
「へ?」
「お魚ちゃんッ! クソ、間に合えッ! 我が身に苦難あり。されば
視界の端っこでパリピがお札を振っている中、どんどんと近づいてくるのがお土様です。その瞳はわたしを見ておらず、何処か遠くを見ているようでした。
そう感じた時、ふと、わたしは分かってしまいましたです。
ああ、そうか。神様からしたらわたしみたいな人間なんて、道端のアリと同じですよね。通り道にいようがいまいが、全く気にしない。わざわざアリを踏まないように歩くなんて、しませんですよね。
「あっ、あああ」
そのお姿がどんどん巨大になってきます。おそらくはとんでもないスピードである筈ですが、わたしにはその光景が非常にゆっくりなものに見えておりました。
蟲の後遺症か何かで力だけはあるわたしですが、不意打ちとはいえアヤメちゃんを一撃で戦闘不能にした神様の突進に、敵う訳がないでしょう。津波相手に格闘技の達人が何もできないのと一緒です。
同時に頭の中を今までの人生の光景が駆け巡っていくです。まさかこれが、走馬灯というやつなのでしょうか。ほとんどの思い出が、あのホウロクを崇めていただけ。それ以外の思い出と言えば、大学でのわずかな日々しかありません。
わたし自身の人生って、なんだったのでしょう。
一方で現実なんてそんなもんだと、冷めた自分もいますです。上手くいかないまま、自分の思い通りにならないままに苦しんで、報われないまま死んでいく人なんて、きっと山ほどいます。
その中の一人に、わたしが入っただけ。殊更不幸なことではありません。
世界のみんながそうなんだから、特別なんかじゃない。わたしだけが悲劇のヒロインなんてことは、あり得ないのです。
分かっています、これが普通なんです。いずれ誰もが死ぬことも、それが突然やってくる人だって大勢いるんですから。
そうだって。頭では、分かって、いるのに。
「死に、たくない、です……い、いや、いやぁ」
震える唇から紡がれたのは、生きたいという思いでした。どれだけ分かっていても、頭がそうだと理解していても、わたしは嫌でした。
死にたくない、死にたくないです。まだまだ、生きていたいんです。
やっと、目が覚めたというのに。初めて、自分の足で、歩いていけると思ったのに。
部長やクロちゃんとも、心から接することができて。まだわたし、彼らに迷惑をかけたことをちゃんと謝れてもいないんです。謝って、和解して、オカルト研究部はこれからだったじゃないですか。
それに自分自身が好きになれる人だって、未だ見つけてないんです。夢見がちだったクロちゃんではないですが、あんな中年じゃなくて、わたしが心の底から望めるような男性を、探していける筈だったのに。
頭に過ったのは、あのパリピの姿でした。
ああ、確かに。見てくれだけはそこそこ良いですもんね。わたしを助けてくれた人でもあります。別に彼自身がいいとか、そういうことはありませんが。助けてくれたお礼も、まだできておりません。
わたしには、やり残したことが、たくさんあるのです。
なのに。
「スィャァァァアアアアアアアアアッ!」
気が付くと、視界いっぱいがお土様の姿になっていましたです。
ああ、もう、時間切れです。吹き飛ばされたわたしは、先ほどのアヤメちゃんのように、無残な姿になるのでしょう。
人式神である彼女が一撃で気を失ったのであれば、生身のわたしは身体がはじけ飛んで即死してもおかしくありません。
その瞬間、身体中に悪寒が走りました。寒気からくる震えも駆け巡っていき、目が見開かれます。戦慄、そうとしか言えない状態なのが、今のわたしです。
わたしは、もうすぐ、死ぬ。
「た、助け、てっ!?」
不意に、わたしの身体が突き飛ばされました。正面のお土様によってではなく、横合いから。
全くの無抵抗だったわたしは、横へと倒れこんでいきます。咄嗟に動いたのは、首だけでした。一体何が起きたのか。
倒れこんでいくわたしが視界に捉えたものは。
「じっ、けい?」
アヤメちゃんによって光の紐で縛り上げられていた筈の、実兄の姿でした。
長い黒髪を振り乱した彼は、ボロボロになった両手をわたしの方へと突き出しています。アヤメちゃんが放ったあの拘束を、破ったとでもいうのでしょうか。
わたしを助ける、為だけに。
「カナ、カ」
虚ろだった実兄の瞳に生気が戻っていました。その彼がほんの少しの笑みを浮かべ、わたしの名前を呼んだその時。
わたしの視界は通り過ぎていくお土様の姿で塞がれてしまいました。
「……えっ?」
遅れて吹き抜ける風が髪の毛を揺らした時、わたしは間の抜けた声しか上げることができませんでした。突き飛ばされ、尻餅をついてしまったわたしには特に怪我はありません。
恐る恐る、お土様が向かった方向へと目を向けてみると。
「スィャァァァアアアアアアアアアッ!」
お土様は急に飛び上がったかと思うと、地面を真下に向けて掘って行ってしまいました。
残されていたのは大きな穴と、その向こうの土の壁に叩きつけられている、一人の男性のみ。
「じ、じ、実兄ぇぇぇっ!」
「お兄さんッ!」
我に返ったわたしは、慌てて立ち上がって走り出しましたです。横からパリピの声も聞こえてきます。
「っ!」
駆け寄ったわたしは、彼の状態を見て言葉を失いましたです。
壁からズルズルと力なく落ちて仰向けに倒れた彼の手足は、あり得ない方向に曲がっていました。身体の至る所から血が出ていて、どんどん土を赤く染めていっています。傷口から子蟲が這い出てきていましたが、それすらも力なく倒れていくばかりです。
「じ、実兄、実兄っ! しっかりしてくださいですっ!」
「とにかく止血だ、アヤメ、手伝ってくれッ!」
「了解じゃっ!」
「カナ、カァ」
パリピとアヤメちゃんが実兄の服を破って包帯替わりにし、わたしが彼を呼び掛けている中で、実兄は弱々しく口を開きました。
「いる、のかい? 目が、あんまり、見えなくて」
「いるです、目の前にいるですよっ!」
「カナ、カァ、ごめん、な」
うわ言のように、実兄は掠れた声を漏らします。
「お前のこと、守れ、なかった。ホウロク、なんかに負、けて、お前を、差し出し、て。ごめん、ごめ、んな」
「そんなこと、そんなことないですっ! いつだって、さっきだってわたしのことを助けてくれてたじゃないですかっ!」
夕食で薬を盛られて羽交い締めにされたことや、祭りの時のことを思い出します。彼はずっと、泣いていました。ホウロクによる強制力が働く中で、ずっとずっと、わたしの為に抗ってくれていたのです。
でも勝てなくて、それが悔しくて、彼はずっと泣いていました。なんて駄目な兄なんだろうと、自己嫌悪に陥っていたんです。
「お願いです、わたしを置いていかないでください。お父さんもお母さんもいなくて、もうわたしにはあなたしかいないんです。わたしを一人にしないでください、おにいちゃんっ!」
わたしは溢れる涙を我慢しないまま、彼にすがるように抱き着きました。
しかし重なった胸が感じ取るのは、彼の鼓動が弱まっていく感覚だけです。
「は、ハハハ。ああ、カナ、カの声が、聞こえる。おにい、ちゃんって、よんで、くれてる。あったかい、なぁ」
耳元で、お兄ちゃんが呟きます。
「ないて、るのかい、カナ、カ? だい、じょう、ぶだぞぉ。おにい、ちゃんが、まもっ」
不意に、お兄ちゃんが言葉を切りましたです。胸に感じていた彼の鼓動が、全く聞こえなくなっている気がします。
「おにい、ちゃん?」
わたしは身体を離して、彼を見ました。
彼の瞳は、まるで壊れた人形のように、空きっぱなしになっています。
手を当ててみれば、彼の身体の温かみが徐々になくなっていっておりました。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
呼びながら、わたしは彼の身体を揺すります。気のせいです、気のせいに決まってるじゃないですか。
だっておにいちゃんが、わたしを置いていく訳ないじゃないですか。そのうちに「なーんちゃって、カナカァッ!」とか言いながら、いつものように飛び掛かってくるんです。わたしの抱擁を受けた実兄が、喜ばない訳がないじゃないですか。
ほら、どうしました。わたしは逃げも隠れもしませんですよ。いつもみたいなアッパーカットも、今日だけは勘弁してやるです。
ちゃんと受け止めてやるですから、ほら。ほら。
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃ」
「もう、亡くなってる」
語りかけていたわたしを遮ってきたのは、隣でしゃがみ込んでいたパリピでした。彼は開いたままになっているお兄ちゃんの瞳を閉じると、立ち上がります。
苦虫を嚙み潰したような苦しい表情のままで、彼は俯いていました。
「な、なにを言ってるですかっ! わ、わたしの実兄がこんなことで死ぬ訳ないじゃないですか。お前の性質の悪い冗談なんかに、付き合ってなんかやらねーですよ」
「…………」
立ち上がって大きい声を上げたわたしに対して、パリピは何も言いません。
「っていうかそんな冗談言うなんて、本当に女の子に対する敬意ってもんが感じられません。今すぐに訂正と謝罪をするのです。ほら、実兄は死んでなんかないって、言ってくださいです」
「…………」
何も言わない彼に、わたしは詰め寄りましたです。
「早く言え、です。実兄は死んでないって、さっきのは冗談だったんだって、言え、です」
「カナカ、殿」
「…………」
アヤメちゃんが戸惑い気味に呼んだ気がしましたが、わたしは構わずにパリピに更に一歩迫ります。
「今ならまだ許してやるです。ほら、さっさと言えです。それともまた、お月様と重なるくらい、ぶっ飛ばしてやろうか、です?」
「…………」
「おい、どうした、です? お前、女の子に殴られて、喜ぶ趣味でも、あったですか? そんな訳、ないです、よね? ほら、早く、実兄は、おにいちゃんは、死んでなんか、ないって。わたしは、一人ぼっちなんかじゃ、ない、ってっ!?」
突如として、パリピがわたしを抱きしめました。
「助けられなくて、ごめん。本当にごめん。オレが、もっとしっかりしてれば、君のお兄さんは、お兄さん、は」
「や、やめるです。お、女の子に、断りもなく、抱きしめ、やが、って。お、おにいちゃん、は」
「オレを責めてくれていい。オレが悪かったから。だから……思いっきり、お兄さんの為に、泣いてあげて。オレは、アヤメの為に、泣け、なかった、から」
「っ!」
パリピの言葉に、わたしの中で何かが弾けました。強がって、無理やり塞ごうとしていたかさぶたが取れて、次々と溢れ出してきます。
涙が、苦しみが。
おにいちゃんを失った、悲しみが。
「う、う、うわぁぁぁんっ! いや、いやです、おにいちゃんが死んじゃうのなんていやですっ! 辛いよぉ、苦しいよぉっ! なんで死んじゃったの、おにいちゃんっ!? もっと、もっと抱きしめてあげたら良かったっ! もっとおにいちゃんって呼んであげたら良かったっ! どうして、どうして死んじゃったんですかっ!? わたしを助けてくれただけたったのに、わたしを守ってくれてただけだったのにっ! ひどい、酷いですっ! こんなのって、あんまりですっ! なんで、なんで……うわぁぁぁんっ!」
「ごめん、ごめん。オレにもっと力があったら、本当に天才だったら。こんなことには、ならなかった、のに」
「うわぁぁぁんっ! うわぁぁぁんっ! ああっ、あああぁぁぁっ!」
暗い洞窟の中、わたしはただ彼に縋り付いて泣いていましたです。泣き声だけが、響き渡っていました。
泣き疲れて声も出なくなってきた頃。ふと視界に入ったおにいちゃんの顔は、少し安らかなようにも、見えましたです。
そうであって、欲しいです。
どうか安らかに眠ってください。
わたしの、おにいちゃん。
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