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mono-less
1 ちんぽを仕舞うように
これを読んでいるあなたに一つアドバイスをするならば、人生においては常に内側に気をつけろということだ。真に厄介な問題というのは外側からではなく内側からやってくる。支配的な親、配偶者の不倫といった家庭問題しかり、糖尿病や精神疾患のような病しかり。「こんな人生に意味などない」といった類の哲学的諸問題の発作もそうだ。こいつらは玄関だの窓だのにカギをかける程度では追い払えない。あの夜、僕の身に発生した問題もそうだった。就寝前の心地よい排尿を終えて居間に戻ると、テーブルの奥のスツールに見知らぬ男が座っていたのだ。
「よお、先生」
心臓が跳ね上がり、僕は短い叫び声を上げた。なにせ一人暮らしの部屋、それもつい一分前までノートパソコンに向かって作業していた部屋で侵入者がくつろいでいるのだ。背後によろめき、勢いよく本棚に背中をぶつける。無造作に積んであった文庫本が床にこぼれ落ちた音が聞こえた。
「たくさん出たか?」男は言った。
「……え」
「便所だろ? たくさん出たのか?」
実際のところ、たったいま追加分が下着に出たところだったが、とてもそれどころではない。僕は唖然としたまま、小さく頷いた。
「そいつはよかった。溜めてから出すのが一番気持ちいいからな」
「だ……誰ですか!? どうやって入ったんです? 泥棒ですか、なんですか! けっ、警察呼びますよ、警察!」
僕が毅然とした態度で物申すと、男は鼻で笑った。
「誰ですか、と来たか。ハッパもやらんくせにずいぶんイカれたことを言う。さすが作家志望なだけある」男は言った。「だが三流だ」
鳥肌が立った。こいつは僕を一方的に知っている。いや、それどころじゃない。知り過ぎている。なぜなら作家デビューは僕の秘密の野望だからだ。大学の友人はおろか、SNSですらつぶやいたこともない。何者だ。男は見たところ、歳は四十代から五十代。黒のレザージャケットに黒のジーンズに身を包み、頭は白髪混じりの短髪。アメリカの俳優を思わせる彫りの深い顔には粗野な雰囲気が漂うが、一方でそこには自分の家でくつろいでいるかのようなゆったりとした笑みが貼りついている。僕はこの男を知っているのだろうか。向こうがこっちを知っているように。どこかで会ったような気もするが思い出せない。
男はあごを振って、目の前のソファーを示した。「こっちに来て座れよ、先生。俺たちは腹を割って話し合う必要がある」
だが僕は従わなかった。すぐさま身をひるがえし、廊下へ駆け出そうとしたのだ。しかしこれが失敗だった。勢いよく踏み出した僕の左足が床に落ちた文庫本を踏んでしまったのだ。ここでこれを読んでいるベイビーに二つ目のアドバイスを。本のカバーは踏むと滑る。僕は前につんのめり、廊下に身を放り出した。床に強打した右肩から鋭い痛みが脳へ届く。僕は声も出さずにうめいた。
「話し合う必要があると言っただろう。人間、やらなければならないことから逃げようとすると、必ずしっぺ返しを食うんだ」男の声が聞こえた。「どっちか好きな方を選んでいいぞ。俺と話をするか、それとも俺にその怪我の手当てをさせるかだ。幸い、手当ての道具ならある。心配ない。俺はこいつのプロだ。すぐに痛みは消える」
身体を起こして、居間に目を向けた。息をのむ。床では僕の足にカバーを破られたアイラ・レヴィン『死の接吻』の死骸が転がり、スツールの上では拳銃を持った男が銃口をこちらに向けていた。どうしてこんな凶事が唐突に降ってくる? もうすぐ布団の暖かさとともに一日が終わるところだったのでは? そして一つ凶事はもっと多くの凶事の始まりなのでは……? きっとレヴィンなら同意するはずだ。
「わかった。話し合うから、それをしまってください」ゆっくりと立ち上がる。両手を上げようとしたが、たちまち右肩が悲鳴をあげたので、左手だけのぶざまな選手宣誓のような形になった。
「席についたら、すぐにしまうさ。今しがた便所でお前がちんぽを仕舞ったようにな」
リルケの詩のような美しい比喩表現に頭がくらくらする。僕は片手を上げたまま、ゆっくりソファーに近づいた。テーブルを挟んで左斜め前に座っている男の正面を向いたまま、浅く腰を下ろす。ソファーの尻ざわりが妙によそよそしく感じた。
「いい子だ」男はレザージャケットを開き、ジーンズと腹の間に拳銃を突っこんだ。性器をしまうように。
「金目のものなんてないですよ。毎日アルバイトしてようやくなんです」
「それはご苦労なこった。ただ俺は強盗じゃないし、暴力をふるう気もない」銃口を向けておいて? 「お前と話をしにきただけだ」
「もしかして下の階の方ですか? 部屋でドタバタしたような記憶はないですが」
男は問いに答えず、スツールの横においてある紙袋に手を入れた。取り出したのは二つのグラスだ。毒でも飲ませる気か。「俺達が二人で過ごす初めての夜だからな。親睦のしるしに一杯やろうじゃないか。酒はウイスキーがいいだろうな」
おおむね毒のようなものだった。ウイスキーは苦手だ。といっても初めて飲んだのは一週間前の金曜日。いま書こうとしている小説で、主人公の探偵にウイスキーを飲ませたくなり、参考資料としてスーパーで安いやつを一本買ってみたのだ。普段はチューハイしか飲まない僕にとってはそれなりの冒険だった。さっそくそのまま一口飲んで、僕はすぐに後悔した。まず独特の香りが受けつけない。スモーキーだかなんだか知らないが、ひたすらアルコールであることを主張しているツンとくる匂いとしか思えない。味も度数のキツさを感じるだけでとらえどころがなく、ただ喉元が熱くなる。そして最高の置き土産、二日酔い。
「いや、僕は結構……」
「ウイスキーといっても、お前がこないだ買って一口飲んでやめたような代物じゃないぞ」男は真剣な顔つきで僕の目をみた。「資料のつもりで買ったが、あまりにマズくて排水溝に飲ませることにした、あのウイスキーのことだ」
この男は僕を知っているだけじゃない。自分が僕を知っていることをわからせようとしている。そして明らかにそれを楽しんでいた。
「いや、あんなスーパーのクソ安物ブランドはウイスキーとは呼べんな。ありゃ貧乏人もごまかせないような質の悪いニセモンだ。そこで、俺からかわいいベイビーに一つ目のアドバイスを送ろう」男は脇においた紙袋に手をいれて酒瓶を取り出した。「本物に接しろ。正確な描写は本物から生まれる」
そして僕はこの男が誰かわかった。
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