林檎列島(短編編集版)

猫舌サツキ★

矯飾ユートピアへの誘いは駅前午前7時より

きつねたぬきの化かし合い】

悪賢い者どうしが互いにだまし合うことのたとえ。




****




 渋谷駅の前で、奇妙なポケットティッシュを受け取ったことが、全ての始まりだった。



 狐の面を被った若い女性が、黄色い声をキンキン響かせる。「ユートピア、いかがですか!?」と言いながら、ポケットティッシュを配っていた。



 それを駅前で受け取った次の日の出勤日……


「は……?」



 会社へと向かって歩いていた会社員【河今治かわいまじ】は、唖然として、口がぽっかり開いたままになってしまった。


「なんだこれ……夢か?」



 瞬きの一瞬で、世界はガラリと変わってしまったのだった。



 渋谷スクランブル交差点に集結している人々が、みな、狐や狸の仮面を被っていた。


 スーツを着ている、会社員であろう女性も、アロハシャツを着た男も、シルバーカーを押す老人も、母親の手に繋がれてちょこちょこと歩く幼児も、皆が、狐か狸のお面をつけていた。



 そんな人々が、信号の色が青へと変わった瞬間に、ざっと、歩き始めた。


「まてまて、どうなってんだ……」



 首をガリガリと爪で掻いても、頭をポンポンと手で叩いても、河今治は、夢から覚める気配を感じなかった。


 なんと、現実らしい。



 行き交う仮面の人が時々、河今治のほうをちらっと見た。なぜなら、彼だけが、お面を被っていなかったからである。




――あの人、お面、つけてない。



――非常識な人ね。



 そんな聞こえないはずの声が、聞こえてくるようで、人々は冷たい視線を、河今治に注いだ。



 メドゥーサに魅せられたかのように硬直してしまった河今治の背中に、聴き慣れた声が飛んできた。


「あ、先輩、おはようございます!」



 声を飛ばした張本人は、河今治の勤める会社の後輩、【あきら】である。



 彼もまた、周囲の人々と同じような狐の面を付けていた。



「明くん……お前もか……」


 声で分かった後輩の存在を視界に映して、河今治は落胆した。彼も、狂ってしまったのだろうかと。


 肩をがくっと落とした先輩の顔を見て、後輩の明は、自らの頭を手のひらで撫でた。



「先輩……なんで、お面つけてないんですか?」

「こっちが聞きたいよ。なんで、お前たちはお面なんか被ってるんだ……?お祭りじゃないんだからさ……」

「なんでって……まあ、常識ですし」

「はぁ!?常識……?こんなの、常識であってたまるかよ」



 さも当然かのように、明は語った。


 どうやら、この日本っぽい世界は、日本ではないのだと、河今治は悟った。



「買いに行きましょうよ。それでは、出社できませんよ」

「そんなバカな……」



 渋々と河今治は、お面が売っているという店へ向かう後輩の背中を追った。相変わらず、見かける全ての存在すべてが、狐か狸のお面を付けていた。




 お面を被った人々が住まう、見た目だけが日本らしい【ユートピア】での生活が始まった。

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