第5話 傷跡
今日の事は誰にも言えない。
祥太は家に帰るなり、部屋に閉じこもった。
誰にも言っちゃいけないのだ。あれは夢なのだ。
イスに座ってぼうっとしていると、部屋をノックする音がした。
「祥太、風呂沸いたぞ。入れ」
兄の
「うん……」
祥太はのろのろと立ち上がった。背中が痛い。体中のあちこちにかすり傷ができて、血は止まったが洋服が擦れるたびに痛かった。そして、痛むたびに宏人の顔が思い浮かんだ。
祥太はパジャマを持って階段を下りた。脱衣所に入り、傷に触れないように洋服を脱ぐ。バスルームに入ると、当たり前のように後から兄が入って来た。柏木家では、小さい頃から節約のために二人で入れ、と母から言われているので、兄弟で入る事は珍しくない。
六歳違いの裕一は大学三年生で、背が高く賢い兄は祥太の憧れでもあった。父親似の兄は引き締まった顔をしているので、母親似の自分はどう足掻いても変えられないが、せめて身長は兄と同じくらいになりたい。
浴室に入り兄に背中を向けてから、しまったと思った。
「何だお前、転んだのか?」
案の定、背中の青痣と擦り傷を見て兄が驚いたように言った。今さら隠す事はできない。
「うん……。帰りに転んだ」
「ドジだな」
その言葉にむっとする。
「ふんっ」
顔を背け、浴槽のお湯をざばーっと浴びた。
「いったっ」
かすり傷が沁みる。裕一はその様子を見ながら呆れたように言った。祥太が頭を濡らして髪を洗い始めると手伝ってくれる。手を動かしながら、
「大丈夫か? 何だか、今日は機嫌が悪いな。宏人が合格したのがそんなにうらやましいのか?」
と言った。祥太はぎくりとして体が震えた。
そういえば、宏人が合格してあんなに嬉しかったのにすっかり忘れていた。
「そ、そんなんじゃないよ」
「お前にはあの高校は無理だよ」
「兄ちゃんまでそんな事言うのか?」
振り向くと裕一が苦笑していた。ざばっと頭にお湯をかけられる。
「当たり前だろ? お前の成績表を見た時、目を疑ったぞ」
「むかつく」
ふんっと顔を背けると、裕一が背後でくぐもった声を出した。
「本当にこの背中どうしたんだ? ひどい痣ができているぞ」
「転んだっ。もう、ケガの事はいいよっ」
忘れなきゃ。あれはなかった事なんだ。
「何を苛々してんのか知らないけど、早めに宏人に言っておけよ」
「な、何をだよっ」
「一緒の高校には行けないって、明日言え」
「明日? やだよ……」
もごもごする祥太の言葉に、裕一は眉をひそめた。
「ケンカしたのか?」
「そうじゃないけど……」
歯切れの悪い言葉に裕一は息をついた。
「宏人から電話があったぞ」
「え? 何か言ってた?」
祥太は急に不安になって兄を見上げた。
「受験に合格したって報告だった」
「他には?」
「何も」
首を振ると、祥太は唇を噛んだ。
「先に謝った方がいいぞ」
「ひっ、宏人が謝るまで、絶対に口きかないから」
祥太はそう言うなり、さっさと体を洗ってお湯を浴びると浴槽に浸かった。裕一は不思議そうに弟を眺めてから自分も体を洗い始めた。
「何を子どもみたいな事言っているんだよ」
「俺は子どもだからいいんだよっ」
つんと顔を背ける姿はまだ幼い。
「宏人に合格祝いをしてやらないといけないな」
「え……。う、うん……」
「もうすぐ高校に行くんだ。それまでに仲直りしろよな」
「……」
「あいつ一人っ子でさみしいんだよ。祥太の事が大好きだからさ。可愛いじゃないか」
宏人が俺を好き?
兄の言葉を拾って胸がツキンと痛む。
好きって何? なんかすげえ怖かった。
友達だと思っていたのに。
好きって何? わからねえよ。いきなり言われても、わかんねえんだよ。
祥太は考えたくなくて、首を振って気持ちを振り払った。
ぶくぶくとお湯の中に顔をつける。
「祥太」
「何っ?」
ふてくされた声が返ってくる。裕一は苦笑しながら、
「サッカーが好きなんだろう。昴流学園はサッカーに力を入れているからお前に合っていると思うよ。目標をちゃんと持って楽しんだらいい。宏人と同じ高校に行くだけが人生じゃないんだ。無理しなくていいんだよ」
と、弟の小さな頭を撫でた。祥太は戸惑いながら小さく頷いた。
「兄ちゃん、後で背中のケガに消毒してくれる?」
祥太が小さく言った。
「ああ、いいよ」
裕一は笑った。
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