第4話 おまじない



 校舎を挟んで渡り廊下の向かいにあるのは体育館だ。

 宏人は体育館裏へと歩いていく。ひと気のないところに来ると、宏人は何かを気にするようにキョロキョロと見渡した。


「何やってんだ?」


 祥太が不思議そうな顔をしていると、いきなり宏人が祥太の背中に腕を回した。ひとまわりも大きい体にのしかかられて面食らった。


「な、何? どうした? 気分が悪くなったのか?」


 宏人は顔を伏せたまま首をぶるぶると振った。何だか様子が変だ。抱きつかれるのはいつもと一緒だが、その抱きつき方がちょっと違っていた。異常に力がこもっている。ちょっと苦しい。


「祥太、僕ね、合格したらどうしても伝えたい事があったんだ」

「え? あ、うん。何?」


 顔を上げると、潤んだ瞳の宏人が見つめていた。


「あのさ、祥太、好きな女の子いる?」

「女子? いや、いないけど」


 祥太はこの体勢は話にくいなと思いながら顔を上げた。宏人の顔は真っ赤だ。その顔を見てハッとした。


「もしかして、俺のクラスに気になる奴いんの? 誰? どんな子?」

「違うよ」


 宏人が苦笑した。


「じゃあ、宏人のクラスメート? 俺さ女子にからかわれてばっかりだから、あんまり興味ないんだよな。女子の話ならさ、竜之介の方が詳しいんじゃないのか?」


 頼りになれなくてごめんな、と言うと宏人が首を振った。


「祥太」

「あ、うん」


 呼ばれて顔を上げると、宏人が顔を寄せてきた。


「んっ?」


 このままでは顔面衝突するぞというところまできて、祥太はゴンと頭を体育館の壁にぶつけた。


「いってっ」


 顔をしかめてぶつけた部分を両手で庇うと、唇にぐにゅっと何かを当てられる。


「んっ? んんっ」


 祥太は目を見開いた。

 宏人、何してんの?

 キスという可愛らしい単語ではなく、窒息させる気か? というほど力のこもったキスであった。

 く、苦しいっ。

 足掻くと空気が肺に流れ込んできた。息継ぎするために宏人が唇を離したのだ。


「な、何するんだよっ」


 思い切り宏人を突き飛ばした。宏人は顔を赤くさせて地面に手をついた。


「祥太が好きなんだ。大好きなんだっ」

「な、何言ってんだよっ」


 宏人の言っている意味が分からない。

 立ち上がった宏人は、再び祥太の肩に手を乗せた。体育館の壁に押し付けられる。


「あっ」


 もう一度、宏人が顔を寄せてくる。


「やめ……」


 荒っぽいだけのキスに祥太は怖くなった。


「や、やめろよっ」


 背中は打ち付けられてから、ずきずきしている。しかし、そんな事はどうでもよかった。一刻も早く逃げ出さなければ、それしか頭になかった。


「や、やめろっ。やめろ宏人っ。気持ち悪いっ」


 無我夢中で叫んだ。抵抗した祥太の手が、宏人の顔をしたたかに打ちつけた。衝撃で宏人がハッと目を覚ました。


「祥太……」

「な、何するんだよっ。宏人のバカっ」


 睨みつけると、頬を押さえていた宏人の目からほろりと涙が零れた。宏人の涙を見て、あっと思ったが、祥太は起き上がって逃げ出した。校舎に向かって闇雲に走っていると、自分を呼ぶ声に立ち止った。


「祥太。探しとったんで、終わったか?」


 竜之介がのんびりした口調で歩いてくる。祥太は顔を伏せた。


「どうしたんや? なんか、あったんか?」


 ただならぬ様子に竜之介が声をひそめた。


「な、何もないよっ」

「ケガしとるやんか」


 竜之介が祥太の手首を持ち上げた。手の甲から血が流れている。


「大丈夫だよっ」

「大丈夫やない。ほら、来い」


 顔を上げようとしない祥太を竜之介が引っ張った。足ががくがくして、今にも膝から力が抜けそうだったが、竜之介が支えてくれた。


「痛いか?」

「大丈夫……」


 祥太は顔を伏せたまま小さく頷いた。


「ほんとに痛くないか?」


 何度も聞く竜之介に、祥太は答えようとして少しだけ顔を上げた。


「……痛くないよ」

「そうか。ならええけど」


 笑おうとしたができなかった。笑えばたぶん涙が出る。泣くのだけはどうしても嫌だった。

 保健室の前で祥太を待たせて、竜之介はそっとドアを開けて中をのぞいた。


「あちゃ、先生おらんわ」

「そっか……」


 戸を開けて中に入ると、室内は薬品の臭いがした。


「とりあえず、それ洗っといたほうがええわ。泥もついとるし」

「うん……」


 祥太は、学ランを脱いで手洗い場で手を洗った。竜之介は先生の机や棚を見ていたが、薬が分からん……と呟くのが聞こえた。そして、祥太の方を見て、あっと声を上げた。


「祥太、背中も血が滲んどるやないか」

「え?」


 竜之介が、祥太の背中のシャツをめくって硬い声を出した。


「擦り傷だらけや。何しとったん?」

「痛くないから、ただのかすり傷だよ」


 そう言いながら祥太は目を逸らした。何があったのかなんて言いたくなかった。

 それを見て、竜之介はため息をついた。


「……そうだな。唾つけといたらすぐに治るな」


 竜之介がそう言って唾をつけようとしたので、祥太は慌てて体を引いた。


「や、やめろよっ」


 思わず笑うと、竜之介も一緒に笑った。


「痛いの痛いの飛んでけーって、やってやろうか?」

「子どもじゃねえよ」

「おまじないはきくんやで」

「本当かよ」


 胡散臭そうな顔で竜之介を見ると、彼は真剣に頷いた。


「じゃあ、やって……」


 ぼそっと言うと、よっしゃと勢いよく竜之介は言うと、


「痛いの痛いの飛んでいけー」


 と大声で叫んだ。


「竜之介、声がでかいっ」


 祥太が慌てると竜之介は首を振った。


「本気でやらんと意味がないからな」


 そう言ってもう一度、


「痛いの痛いの飛んでいけー」


 と、遠くの山へ飛んでいくようにぽーんと腕を振り上げる。祥太は一生懸命おまじないを唱えながら、思わず泣きそうになった。

 何で、あんなことしたんだよ。宏人のバカ……。意味わかんねえんだよ……。


 宏人にされた事、あれは夢だったのだ。現実ではないのだと。

 このおまじないで、心の痛いのも遠くに飛んでいってしまえばいいのにと切実に祈った。


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