第15話・菜緒が掴んだ手
菜緒の手刀は呪現言語により硬質化した。菜緒と俊也の距離は二メートル、ツーステップで踏み込める距離。近づけば離れる、なす術のない俊也のせめてものの勝機を見出す戦法だった。
「勝てればいいんだ、勝てれば」
俊也の声がどんどんおぞましさを帯びた。
俊也から放たれる悪意と敵意と憎悪がうずまく呪現言語の数々。「死」「病」「苦」「悶」その言葉ひとつひとつが菜緒の精神にゆらぎを引き起こし、不安を作り出した。菜緒は、感じたことのない絶望を抱いた。スニーカーの紐がほどけている。結び直しているヒマはない。
「菜緒!残五十センチ、俊也に」
満身創痍の鷲子が叫ぶ。喉が枯れる。いくら回復を受けたからといって、三死のあとに移動系の呪現実言語はあり得ない、それくらいは菜緒にもわかった。鷲子は再び倒れ込んだ。千堂寺が俊也の隙をついて、鷲子を抱きかかえる。菜緒には一瞬鷲子がほほ笑んだように見えた。愛する男に抱かれるとは、どれほど、心がぬくもるのだろうか、菜緒は陵介を抱きしめたかった。
菜緒と俊也との二メートルもの距離が、鷲子の呪現言語の力で五十センチまでに近づいた。追い込んでも、逃れようとするしぶとい俊也を仕留めるのは今。陵介を救うことを今ここで諦める覚悟が菜緒に求められた。
「できない…」
菜緒は躊躇した。ごくごく普通の人生の延長線上に、結婚があるとするならば、陵介と結ばれたい。菜緒の想いはずっと変わらなかった。陵介以外の男とも寝たことはある。だが、だれとも本気になれなかった。心も身体もまっすぐに抱きしめられたいのは陵介以外の誰でもなかった。その陵介を俊也ごと殺さなければならない。潜入捜査を志願したのもうまくやれば、陵介を殺さなくて済むかもしれないと考えたからだ。だが、今はもう陵介を殺さなければならない、俊也ごと。自分はごく普通の幸せを手にすることは、もうないのだとどこか諦めの境地にいた。
「菜緒ちゃん、大丈夫。やっちゃって」
俊也を一瞬、陵介が支配した。一瞬の隙をついた。陵介はこの機会を狙っていた。自分ができることは、父俊也を道連れに逝くこと。そのためなら、自分の身体が朽ちても滅ぼされても構わない、陵介を強い意志が支配していた。
菜緒は陵介の覚悟をそこに見た。そこに陵介がすべての決着を今つけるという覚悟。菜緒はその想いに応えることがあってもいいのではと、それも愛のカタチだと自分の中で反芻した。
菜緒は硬質化した手刀を俊也の右肩から左肺へと抜けるように繰り出した。確実に心臓を経由し、命を絶つ攻撃だ。噴き出る血しぶきは、天上にまで届いた。千堂寺と鷲子も、俊也の血を浴びた。前のめりに倒れ込む俊也。憎悪の塊がプツプツと弾けては消えていく。テーブルに置きっぱなしにした炭酸水のように「気」が抜けて行った。
菜緒は俊也が抜け去った陵介を抱きしめた。
「陵介さん、陵介さん!陵介!!!ごめんなさい。私、わたし」
菜緒は蜘蛛の巣のタトゥーが入った陵介の両手を握った。命が消えようとする、最後の炎のようにぼわっと、暖かいというよりも熱かった。火傷しそうな陵介の手を握る。言葉にならない声を陵介が放つ。
「あ、り、がとう、な、おちゃ、ん」
やっと本物の陵介の手を握れたと、菜緒は安堵した。菜緒はそして、ある覚悟を実行した。陵介の手を握りしめたまま、「Q課に移動」と呪現言語を放った。それは、【ザ・フライ】の如く、菜緒と瀕死の陵介の細胞が融合することを意味していた。ふたりの身体が光を帯びる。転移が始まった。
ふたりは、やっと、はじめてひとつになれた。
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