第37話 猫の奮闘記 下
翌日の朝。
12月の寒い朝だ。あまりにもの寒さに、スズメも羽根を広げるのをためらい、
体に風船を二つ括り付けて空を飛んでいる。実にありふれた朝だ。
昨日の晩、宏明は飼い猫ならぬ怪異猫と約束をしていた。
猫が喫茶店のフロアのバイトが終わった後、ラーメン屋にバイトに行くまでの僅かな時間を使って、
明日誕生日を迎える麻由の、誕生日プレゼントを買いに行くというものだ。
猫の喫茶店のバイトが終わるのは7時。ここまでに、一人娘が何を欲しがっているかを、宏明は知る必要があった。
この日は平日で、宏明は出勤しないといけない。
つまり、この朝、麻由が起きてリビングに来るまでの時間に、宏明は妻の靖子から情報を引き出さすことがミッションとなっていた。
これは、一人娘の好物すらわからない父親としての失格さを妻に曝け出す勇気がいる作業だ。
宏明の心の中には抵抗があった。猫の前で、一才の自分の愚かさを認め、恥を偲んで靖子に聞いてみるつもりではいたし、
なんなら昨日の晩に何度も脳内でリハーサルを重ねていた。
何気ない会話から、何気なくさりげなく、この話題に持っていき、
「○○って麻由は喜んでたっけー?」と小賢しく切り出すプランであった。
しかし……
靖子を前にして宏明は完全に日和っていた。
今、何かを話せば、全てを靖子に悟られてしまう。そして、自分が麻由のことを何一つ理解していないことを知られてしまう。
宏明は新聞を読みながら黙っていた。
今日の記事は、一面は大谷翔平が所属しているセリエ・Aで今季六度目のハットトリックを決めた記事。
そして日本の第三王子が、8日に『こけし寒風摩擦返しの儀』を行うことが決定したという記事だった。
新聞を運んできた333匹のアリは、今は鈴木家のリビングで休憩している。
早く話をしないと、麻由が起きてきてしまう。
靖子が、朝ご飯の天苗楼を切り分けたものを運んできた。
宏明は口を開けど、言葉が出ない。
自分はどれだけダメな父親なのだ…… 宏明は我が身を情けなく思った。
しかし…… 何も言わないという事がかえって怪しまったようだ。
「何を聞きたがっているかわかりませんが」
靖子は、郵便アリたちに報酬を支払いながら宏明にむけて、
「私は何も知りませんよ」
と言った。
「え」
「さて、麻由を起こしてきますね」
「あ、ちょっと待って!!」
「私は知りませんからねー」
靖子は行ってしまった……
出鼻を挫かれた……宏明は、勤務中に麻由の好みを推理することを強いられた。
しかし、職場でいくら頭を捻っても、
過去を振り返っても、
「これだ」と確信が持てるものが思い浮かばない。これまでの誕生日プレゼントを一通り思い出してみたが、
喜ぶ麻由の顔は思い出せるが本当に喜んでいるのか、確信が持てない。
……だいたい、なんで今年はこんなに麻由へのプレゼントを迷っているのだ?
例年通り、無難に過ごせればいいじゃないか。
こんなものは気持ちだろう。気持ち。だいたいが、自分の少年期を振り返ったって、
黒鉄から誕生日プレゼントに何を貰ったか思い出せないじゃないか。所詮そんなものだろう。誕生日プレゼントなんて……
と、いつものダメな宏明なら思っていたところだろう。
しかし、昨日の猫が麻由のために汗水垂らしてアルバイトをしている姿を見てしまい、自分も何かしなければというバイアスに宏明はかかっていた。
目に見えるすべてのものをヒントにして、考えてみる。
パソコン、スマホ……麻由には早い。
マグカップ……無難だが無難がすぎる。
だめだ。手詰まりだ。
昼休み、同僚のヤモリカブトガニに思い切って相談したら、
「宏明さんの気持ちがこもってれば大丈夫っすよ」
などと言われた。
そうか……気持ち……か。そうだよな。
それでやってみよう。猫の時間が許す限り、一生懸命選んでみよう。
その日の晩、19:20のことである。
バイト明けの猫は、駅の公衆電話から宏明に電話をかけていた。
いくら待てど集合場所の駅に、宏明がこない。
猫は何度も公衆電話に百円を入れ、貧乏ゆすりをしながら宏明を呼び出した。
数十回のコール音の後、ようやく宏明が電話に出た。
「猫か!?」
「シャー」
「すまん!! 会議が入って会社を出れんのだ!!」
「シャ!?」
「お前に全部任せた!! 俺も……半額払うから! とにかくごめん!!」
「シャ!? シャー!!?」
無情にも電話は切られた……。
23:00
仕事終わりの宏明は、猫がアルバイトをしているラーメン屋の前で待っていた。
ラーメン屋はすでに閉まっているものの、怒鳴り声が響いていて、
猫が「シャーセン!!」と繰り返している声が聞こえる。
そこから数分という時間が経ち、店から大きな袋を持った猫が出てきた。
「お、お疲れさん……」
宏明はせめてもの労いの言葉と、せめてもの労いの気持ちとして温かい缶コーヒーを猫に渡した。
猫は受け取らなかった。熱いものが苦手なのだという。
猫は肩を落とし、大き頭を下に、項垂れながら帰り道を歩いていた。
「それで…… 結局何を買った……んだ?」
宏明はさすがに後めたいのか、無理に明るいトーンで猫に話しかけた。
「…… ……」
猫は一言も喋らず、黙ってプレゼント用に梱包された袋を宏明に差し出した。
割と大きい袋だ。
宏明は袋を受け取る。
…… ……袋からの質感と重さで、ある程度、何かはわかる。
これは……ジーンズだ。……それも大人用の。
「お前……これは……」
「しゃあ……」
猫の話では、猫は何を買ったらいいかわからず、デパートを何周もしたが時間だけが過ぎていき、
気持ちばかり焦るのだが、慣れない婦人服コーナーに一人で入る勇気がなく、
いよいよタイムリミットになるともう、どうしようもなく目に映ったものを手に取ってレジに向かってしまったのだという。
宏明は、猫になんと声をかけてあげたらいいか、わからなくなってしまった。
爆笑くらいしてあげれば、いくらか猫も救われただろうか。
しかし、今日この日の、この状況における宏明の立場からすると、もはや笑ってあげることすらできなかった。
帰りにコンビニに寄り、600円のチョコレートケーキを買って、家路をたどる。
こんな惨めな気持ちは初めてだ。麻由は優しい性格だが、サイズも合わない男物のジーンズなんてもらって喜ぶ想像はどうしてもできなかった。
ジーンズと、コンビニのケーキを持って、二人とも無言で、家の前まで着いた。
「え、」
信じられない光景だが、麻由がマフラーとジャンパーを着て、玄関の前で待っていた。
隣には靖子の姿もある。
「猫ちゃん!! どこ行ってたの!! 麻由すっごく心配したんだからね!!」
「……シャーセン……」
猫の声も、心から申し訳なさそうだった。
「あー麻由、そこまで怒らなくてもだな……」
「パパは黙ってて!」
「あ、あす」
一通り怒鳴った後、麻由はようやく猫が抱えている袋に目が行ったようだった。
「猫ちゃん、その袋、何?」
猫と、宏明は一瞬、顔を合わせた。
「な、なんでもないジャン!」
猫が無理のあるごまかしを入れようとして、袋を後に隠そうとしたので宏明はつい……
「あー、麻由。これは猫からの誕生日プレゼントだ!」
「シャ!?」
「……え?」
麻由は目を丸くした。
宏明は、猫から袋をとり、麻由に渡した。
「正直! チョイスは間違えた! だがこの猫はな! これを買うために夜遅くまで頑張ったんだ!
まあこのセンスは正直ナシだと思うが!! それは認めてあげてくれ!……そして、ハッピーバースデー」
奇跡的に、この瞬間時計の針は24:00を指した。
麻由は、袋を少し重そうに持ち、段々と涙を溜め始めた。
「しゃ…… シャーセン!! シャーセン!!」
猫は、すっかり慣れた謝罪の仕方をした。
次の瞬間、麻由は鼻を啜りながら、猫を強く抱きしめていた。
「猫ちゃん…… ありがとう。ありがとう。
麻由こんなに嬉しいの初めてだよ」
「シャー……」
物より、思い出。どこかで聞いた言葉だ。
どうせ博報堂かどこかのコピーライターが考えた文句だろう。
だが、宏明に浮かんだのはこの言葉だった。
猫は照れ臭そうに、「シャーせん」と、言った。
ジーンズはその後、猫と靖子が刺繍をして、麻由の部屋の『のれん』となった。そこには、「麻由と猫(とプリンちゃん)の部屋」と縫われている。
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