短編「カフェ・メモリア」

とーらん

第1話「金木犀と夕日の和紅茶」

人間には、記憶という能力がある。脳の一部に過去の情報を刻み付け、必要に応じてそれを思い出すことで自在にその情報を扱えるという能力だ。

他の動物にも多少はそういった能力はあるが、人間の記憶能力は他のそれと比べて桁外れだ。数年、それどころか数十年も前の事象すら記憶されることも多い。

とはいえ、人間の記憶能力も無限ではない。些末な事象であったり、あまりに昔の事象であったりは、脳の中で取捨選択され、それらの情報は失われる。


人は、それを忘却という。


路地裏のビルの2階。「私」はその店がなぜか気になった。

涼しくなったから少し散歩したくなって、大通りで車がうるさかったから細い路地に逃げてきた、その奥の奥。

普段なら絶対に通ろうとしないような路地の影にその店はあった。

「カフェ・メモリア」

お洒落というか入りづらいというか、「私」には縁のないお店。

だというのに、「私」は目が離せない。好奇心がむくむくと湧き出す。

こんなお店、「私」が入って怒られんだろうか。

とりあえず、ちょっとだけ、外からお店の様子を見てみよ。雰囲気が無理だったらそっと去ればいいか。

階段を上がり、お店の前までそうっと忍び寄っていく。

誰かに怒られることもあるはずないことを理解していながらも、やっぱりなんだか怖い。

暗い色の木でできたドア、にょろりとうねった文字の「OPEN」、色とりどりのガラスで絵のようになっている窓。

うっわ場違いだ。帰ろ。

「私」は爆速で踵を返し、自分の蛮勇を後悔し……ようとした直後、きぃ、という音がした。

え、店主さんに見られてた?こんな不審者丸出しの姿を?話しかけられる?

恐る恐る振り返り……背筋が凍る。

ドアが開いている。でも誰もいない。

なに??自動ドア???

もはや恐怖と困惑で訳が分からなくなりながら、それでも「私」は勝手に開いてしまったドアを放置するのも失礼かもしれないと思いドアを閉めようとする。

そして、店の奥からする香りに気が付く。

なんだろうこの香り……どこかで……

ああ、これはおじいちゃんの家の香りだ。もういないけど、おじいちゃんがよくいた部屋だ。

その懐かしさにすっかり引っ込んでいた好奇心が再び顔を出す。

どんな店主さんなんだろう。おじいちゃんみたいな人なのかな。

「ごめんください~…………」

ドアの一歩先、ほぼ店に入っていないような位置で店主さんを呼ぶ。

来ない。

「あれ?ご、ごめんくださ……」

ふと横を見るとメモ帳が壁のコルクボードについている。

"御用の方はあちらのベルを鳴らし、レコードに針を落としてお待ちください"

うわ本格的なやつだ。いやでももう入っちゃったし……

退路を確認しようと振り返れば、閉めた覚えのないドアが閉まっている。自動ドアなのかもしれないけど、古いドアが自動ドアなのは違和感しかなくて落ち着かない。

ちりりぃーん…………

青緑の和風なのか中国風なのかすら分からない鈴を鳴らし、書かれていた通りにレコードに針を落とす。

え、レコードに針ってどうやるんだ。押し込むのは違いそうだし、ちょっと落とすぐらいかな?

ちょっと針を下げてみると、自重で針は下がった。そして、回っているレコードにすっと吸い込まれていく。

あれ?最初からレコードって回ってたっけ?

再び背筋に悪寒が走る寸前、レコードから、声がした。

"ようこそいらっしゃいませ。一名様ですか?"

「え?え?え?あっはい一名です」

面食らってとりあえず返事してしまう。いやなにレコードに返事してるんだ「私」?

"一名様ですね、畏まりました"

…………れ、レコードが返事をした。なにこれ。どうなってる。

悪寒というよりもうすっかり混乱の方が勝ってしまったが、レコードはそんな「私」をおいて説明に入っている。

"当店は紅茶と記憶の専門店となっております。当店ではまずお客様のお好みをお聞きし、それに合わせた紅茶を提供するというシステムでございます"

え?

「記憶?えーあー、レコードとかの記憶媒体みたいな?」

"そうですね、これはもう実際に見てもらったほうが早いですね。ウェルカムティーをお淹れいたしましょうか"

ウェルカムティー?要するにお試しでなんか飲めるってこと?

「あ、じゃあお願いします」

レコードに向かってお辞儀をする。意味不明だけどさすがに通話かなにかだろう、そうでないと説明がつかない。

"では……このお店に入ってきたとき、どんな香りがしました?"

意味もなくどきりとした。いや、普通の質問のはず……

「おじいちゃんの部屋の香りがしました」

"ふむふむ、ではもう少しお聞きしますね。その部屋の香りを例えるとどんな香りでした?松のようとか、畳の香りとか"

んーーー……

「ええっと、どうでしたっけ……洋室だったから、たぶんそういう系ではなくて……でも少し煙たいに近いような……独特の……」

"それでは、少し思いだせるように質問を変えましょう。その部屋での思い出はありますか?"

「うーーーーーーーん……っもう昔のことだから曖昧ですね、おじいちゃんの顔とかは浮かぶんですけど……」

うんうんとうなっていたら、

"では、ウェルカムティーができました。そこに置いてありますのでどうぞ"

え、そこ?どこ……えっ?

このお店にはさっきから誰もいなかったはずなのに、いつの間にか紙コップがカウンターに置かれている。そして、湯気。

「え?いや、店員さん、え??」

"熱いのでお気を付けて"

「あっ、はい???」

平然としているレコードの声は、まるでこの状況が当たり前であるかのようだ。

不思議の国のアリスじゃないんだからさあ。

とりあえず、ウェルカムティーの匂いを嗅いでみる。


あの部屋の香りがした。

入口で幽かにした香り、でももっと鮮明な香り。

おじいちゃんの部屋だ。

あ、これたぶん本の……


"こちら、『本と線香の中国紅茶』です"

「え、線香?あ、確かに……おじいちゃん毎朝お仏壇に線香あげてたから……」

"その香りがお部屋の中に移ったのでしょうね。お気に召されましたか?"

「えっ、あ、はい、すごいなんだこれ……」

感嘆の言葉しかでてこない。

"当店は紅茶と記憶を扱うお店。こちらの紅茶はキームン地方の中国紅茶にあなたの記憶を香りづけしたものです"

「記憶を、香りづけ」

"どうです?もう一杯"

もはや思考は論理的な理解を放棄していた。ただ空になった紙コップに残る香りは、まだあの部屋の香りが漂っていた。

「では、せっかくだし頂きます」

"いいですね。では、どうでしょう、こんな秋晴れですし……『秋の晴れ』で思い出す、あなただけの香りはありますか?"

秋の晴れ?

思えば最近はすっかり忙しくて秋らしいものとは無縁かもしれない。秋……芋とか栗?いや、それはなんかありきたりすぎるか。あなただけのっていってたし。

秋、秋かあ。最近は暑くなって秋も短くなってきたし、秋を満喫したのってもう学生時代とかじゃないかな。

あれは……

「すごく、曖昧なんですけど」


"いえいえ、記憶は思い出してもらうことが重要ですから。どうぞ"

「学校のそばに、金木犀が植えてて」

さすがに昔で全然思い出せないが、どこかに金木犀が植えてあったはず。


「仲がよかった子と、バスを待ちながらベンチでおしゃべりして」

確かクラスメイトの子。仲は良かったのに、大学になってから疎遠になっちゃったっけ。「私」のことももう忘れてるかな。


「そのベンチに香りが飛んでくるんです。金木犀の」

「あいつは夏の日差しみたいな人だったけど」

どんどん思い出があふれていく。いつの間にか忘れてたっけ……

「あいつの話を聞いて、バスを見送って」

「別にとりとめのない話だったけど」

「あのときいろいろとしんどい時期だったから、それが私にとって救いだったんです」

「そのときの秋晴れって、泣きそうでもなんか隠せる気がして好きだったんですよね」

話しながら、なにかが決壊していく。

こぼれた涙は紙コップでぽとんという音を響かせた。


"……ティッシュならあちらに掛かっております。少し落ち着いたら、ポットをお淹れいたしますよ"

うわ恥ずかしい。店員さん??の前でずびずびにして泣いてしまった。

恥ずかしさを紛らわすように鼻をかんで落ち着かせる。

「すみませんでしたもう大丈夫です」

"大丈夫ですか?ではお淹れいたしますね"

……本当に、どういう仕組みなんだろう。さっきも突然熱い紅茶がいきなり置かれてたし。

"どうぞ、『金木犀と夕日の和紅茶』です"

今もまた、いつの間にか紅茶が出されたし。

しかし、そんな些細なことは紅茶の漏れ出る香りですべて吹っ飛んでいった。

かわいいティーポットから同じ柄のティーカップに紅茶を注いでゆく。セルフなんだ。

注いだ瞬間、その香りは風景になった。


あのころのバス停。あのころの制服。あのころのクラスメイト。苦しかったこと、楽しかったこと、全部あの子と分け合った。今じゃ一人で飲み干せるようになったけど、あのころは分かち合える誰かが必要だった。


あの子が話しているのを聞いてただけだったけど。日が暮れて、またねと言いながら手を振るあの子に夕日が差し掛かって。

「私」もまたねと言ってたんだ。明日また話せる希望を抱いて。


"……夕日が来たらまた明日。再会の約束とともに、いま一時の別れをする時間"

「なんか詩的ですね」

"あなたの記憶のほうがよほど詩的ですよ。ポットのなかにおかわりもありますからゆっくりどうぞ"


いつの間にかレコードは音楽を奏でていた。泣きつかれた後に金木犀の糖蜜のようなとろりとした香りがしみる。

無言で思い出を噛みしめ、最後の一滴まで飲み干す。いつの間にかテーブルに伝票が置かれていた。1,000円って安くない?

千円札を伝票の上に置き、音楽を奏でるレコードに向かって「ご馳走様でした」とお礼を言っておく。返事はない。

「あー美味しかった!なんかすごい体験した」

ビルを降り、空を見る。

香りなどしない夕焼けは、甘くて寂しい香りがした。


ここは、カフェ・メモリア。人々が忘れた思い出の集積地。

忘れ去られた記憶で味付けされた紅茶が味わえるカフェ。

運よく巡り合えたなら、極上の一杯をお試しあれ。

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