ミアリー3

 兄はこの森に術を掛けている。森に居ることに焦燥を覚えるような、ほんの少し精神に訴えかける術だ。これは家族と村の人と、招いた客人以外に作用する。

 勿論、それ以外の人間がうっかり入ってしまうことだって考えられなくはないから、あまり強い術では無い。だから、人によっては上手く効かないこともあるのだそうだ。

 今、ミアリの前にいる見知らぬ誰かには効かなかったのだろう。…選りによって、と言うべきか。ムクルンを、いじめようとする人なんて。

 自分が顔を顰めているのが、鏡を見なくても分かる。

 一旦、母屋に入ったものの、草むしりをしてそのままにした畑が気になって戻ってきたのだ。そして、見も知らぬこの男を見つけたのだ。兄の客人は女性だと聞いていたので、この人では無い。

 向こうはミアリに気が付いていなかったし、こっそり踵を返していれば良かったのかもしれない。何せ、ミアリは自他共に認める人見知りなのだから。

 だが、この男がムクルンを蹴ろうとしたのが許せなかった。

「なんだぁ?」

 男が振り返る。大丈夫、まだ距離はある。ムクルンも逃げて行ったし、大丈夫。

 四十代半ばくらいだろうか。背はあまり高くない。もっともミアリにとって身近な男性は兄で、彼はとても背が高いので、もしかしたらこの人は平均的な身長なのかも知れないが。髪色は黒、目は薄い青だ。はっきりしない風貌だと思う。そして。…顔の造作がどうこう、よりも余程気になることがある。

「どこの、ガキだ?」

「!」

 目の焦点が合っていない。これは、術酔いを起こしている。

 術酔いは主に、精神に訴えかける他者の術を、己の力によって打ち破ろうとする際に起こる症状だ。

 他者の魔術によって、己の精神が蝕まれている、或いは蝕まれかけていると自覚している、と本人は思っているのだ。が、実際のところは本人のその自覚の方が邪魔ものなのだ。大した効力の無い術を見誤り、己の中で複雑に捉えているだけだったりする。元々の他者の術と間違った自覚が混ざり、思考が鈍ったりとんでもない方向に向かったりする。酒を飲んで酔った状態に似ることから、そう呼ばれるようになったという。

 そもそもマリティルはこの森に、あまり強い術を掛けていない筈。

 内心で首を傾げつつ、魔力があんまり強く無くて術もその制御も下手な人なんだなぁ、とミアリは結論付けた。制御に関しては、ミアリも他人様のことは言えないが。

 …どうしたものか。

 基本的に兄姉以外の誰かと接するのは苦手だが、森に侵入している人間を放って置くことは出来ない。しかも術酔いを起こしている者。魔力を持ち、ある程度は術を使える…それを暴力に変えてふるう可能性のある人間。

「………」

 魔術を使われたとしても、こちらも魔術で応戦すれば勝てるだろう。問題は、ミアリ自身の制御だ。昔から、自分の魔力は強大だと言われてきた。それを術として行使するのなら、制御は完璧にしろ、決して修練を怠ってはいけない、と。

「っ」

 体に震えが走る。修練を怠るつもりは無い。ただ、並大抵の修練では間に合わないのも事実だった。故にミアリは日頃は、己の魔力を徹底的に抑える方向に力を注いでいる。寝起き以外は結構、調節は出来るようになってきたと思う。

 だから改めて、誰かと対峙する状況は怖い。普段、抑えているものを解き放つのは。下手をしたら、簡単に殺してしまう。

 怖い。いや駄目だ、怯えるな。術を使うことに怖気づくな。集中して。…自分に言い聞かせる。

「は! お前も俺の邪魔をするのか? だったら、燃えろぉ!」

 男の掌から、火の球が繰り出される。こちらに向かって放たれたそれを、視線だけで受け止め、消してみせた。身振り手振りは使わない。本当は、そちらに目も向けることなく術を行使出来れば最良なのだが、流石にそこまではまだ無理だ。自分は未だ、極めきれていない。

 だが、男はそれでも驚いたような顔をした。そして、ミアリのまだ手練れとは言えない術に腹を立てたように、更に火の球を繰りだしてくる。

 二つ、三つ、四つとそれを弾き消したところで、男は叫んだ。

「ちくしょお!」

「!」

 正直、魔術による攻撃の方がましだった。男が我を忘れたように毒づいた時、ミアリは身を竦めてしまった。

 怖い。

 思わず震えて一歩下がったミアリを見て、男が大きく一歩踏み込んでくる。続けて距離を詰めてくる。歩幅の違いやこちらの緊張もあってか、すぐ目の前に来られてしまう。

 その手が伸ばされ、ミアリの肩で揺れた、結った髪を掴もうとした時だった。

「ミアリっ!」

 自分の名前を呼ぶ声に、涙が出そうになった。男の手が空振りする。

 背後からの駆けてくる足音と、それに加勢するようなムクルンの鳴き声。やがてそれらが近付いて来て、自分を追い抜いていく際に、優しく肩の辺りを叩かれた。もう、大丈夫。そう言われている気がしたし、ミアリ自身もそう思えた。

 力が抜けて、その場に座り込む。ムクルンが一匹、近付いて来てミアリの膝にその頭を擦りつけてくる。ほっと息を吐く。

 と。

「うちの妹に何すんの、この馬鹿っ!」

 前に出たハキルナが、思いっ切り振りかぶったトレイで男の顔面を殴り付けていた。

「……」

 あれは鼻が痛いだろうな、とついほんの少しだけ同情しかけてしまったミアリであった。

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