ANTI-DOTE ~警視庁公安第五課対中毒者特別対策委員会~
水母すい
第1話 毒される者たち
「人は皆、何かに熱狂し毒される奴隷である」
昔、どこかで読んだ哲学書に書かれていた言葉だ。
やけに突飛な表現だったからか今でも記憶に残っているが、あながち間違いではないのかもしれないと最近は思う。
それは言い換えるなら、「生きがい」と同じだろう。
人は長い人生の苦しみに耐えるため、何かに縋りついて拠り所とする。スポーツでもゲームでも勉強でも、はたまた友達や恋人でもいい。生きる上で欠かせないよすがというものが、誰にだってある。
奴隷……は少し誇張表現かもしれないが、 「それ」に縋り依存する俺たちは、一種の中毒なのかもしれないと思う。人は皆、何かに依存し毒された中毒者である——といったふうに俺はこの一文を解釈することにした。
さて、長々と語ってしまったが、結局俺が言いたいのは——
俺にとっての「それ」が、ジャグリングだということだ。
◇
3限終わりの、しばしの休み時間。
俺は天井に向かって、軽くペンケースを投げ上げた。
「おっ、見ろ!
机に座っていた男子が、大声で囃し立てる。俺はその期待に応えるように黒板消しを二つ手に取り、次々と空中に投げ上げ、キャッチし、腕の下からまた投げた。
ペンケースと黒板消しを織り交ぜた、基本のカスケード。
それからクラブに見立てた黒板消しをもう一つ追加し、四本でのナンバーズに移行する。本物のクラブと比べるとやりづらいが、この程度なら造作もない。
「すげっ、四本だ四本!」
「やっぱ操神ハンパないって」
「なんか技見せろよ、技!」
飛び交う彼らの声ですら、今は心地いい。
俺は騒ぎの中心にいた。男子も女子も俺に釘付けだ。
ドロップしかけた黒板消しをキックアップでリカバリーし、1upスピンで観客を沸かせてみる。言うまでもなく彼らは素人だ。どんな技でどれくらい喜ぶのかなんて、想像するまでもない。
(ああ、やっぱりこれだ……)
ジャグリングは、俺の生きがいだった。
積み上げてきた技術とその場の発想で観客を魅了し、楽しませる。それが俺の生きがいであり、生まれもった才能。この歓声も、興奮も、期待も、羨望も——すべて他ならぬ俺に向けられたものだ。
今だけは自分が、世界の主役になれたような気がした。
せめてこの時間だけは、ずっと、俺だけが、
「——おい、何やってんだお前ら。早く席座れー」
驚いて、俺は黒板消しを落とした。
授業開始のチャイムが遅れて耳に入ってくる。クラブを回すのに夢中になるあまり、今が休み時間であることすら忘れていたようだ。
「ったく、なに遊んでんだ。チャイム鳴ってんぞー!」
「やべっ、座れ座れ!」
「数学だり〜」
数学教師の山岡の剣幕に押され、集まっていた男子たちが俺への興味をなくして席に戻っていく。俺もしぶしぶ黒板消しを拾い上げて元に戻したが、山岡は、
「操神も、遊んでないでちゃんと勉強しろよ。来年受験生だろ?」
呆れたような顔で言われ、少し腹が立った。
俺の楽しみを邪魔したくせに、こいつは。
「はい、すみません」
でもまあ、仕方ないか。
大人からすれば、ジャグリングなんて「遊び」なんだ。
昼休みも目前の4限目。
山岡の解説する数学の授業を、俺は聞き流した。
内容はほとんど塾で先取りしているから聞く必要もないし、何よりあいつの教え方は下手くそだ。自分で青チャートでも進めていた方がよっぽど有意義とすら思う。
(いいとこだったのにな……)
ノートから目を離し、窓外の空になんとなく視線を移す。
俺にとっては、ジャグリングで得るあの興奮こそがすべてだ。
他のものには何ら興味はない。もちろん、勉強も。
——だが、それじゃ駄目なことくらいわかっている。
『
大人たちが俺に求めるものは、勉強。
幸か不幸か、外科医を父にもつ俺は、幼い頃から相当の努力と結果を期待されていた。全てを「やれ」と強制されていたわけではないが、やんわりと俺に将来の道を示してくる両親の期待は、そう簡単には裏切れない。
高偏差値の有名高校に入り、国立の医学部を目指す。
交友や恋愛は制限し、賢明な友達とだけ関係を持つ。
それが、両親を喜ばせるために身につけた処世術だ。
「好きなこと」と「やるべきこと」は違う。
俺にとってジャグリングは、単なる娯楽でしかない。本気で打ち込もうとなんて考えたこともないし、ジャグリングで食っていくなんてもっての外だ。
ジャグリングは趣味で、俺の本分は勉強。
そう自分に言い聞かせて、ひたすら好きでもない学業に打ち込んだ。幸いやった分だけ結果はついてきたし、両親も俺に失望するようなことはこれまで一度もなかった。
ただ、それでも。
「つまんねぇ……」
この日常は、俺にとって退屈だった。
◇
同時刻。
遊翼たちの通う高校の前に、一台のアリオンが停車した。
黒いルーフの上に設置された赤のランプが意味するのは、「捜査車両」。田舎町に似つかない物々しさを放つその車から、ドアを開けて一人の女性が姿を現した。
「ふむ、思ったよりもいい街だね」
パンツスーツを着こなした淑女は、そっとアスファルトに足を踏み入れる。黒のスーツと双璧をなす白い長髪はゆるく風になびいており、右手には晴天にもかかわらず傘が握られていた。
「空気も澄んでて美味しい……まさに私の求める田舎町だ」
「……それ、遠回しにディスってないすか?」
反対側のドアから、今度は長身の男が顔を出す。
燃えるような赤の髪や筋骨隆々の肉体とは対照的に、その雰囲気は落ち着き払っていた。彼は片手で車のドアを閉めると、白髪の女性の隣に並ぶ。
「やだなぁ
「普通の進学校に見えますけどね」
ポケットに両手を突っ込み、辛木と呼ばれた男は冷めた目で校舎を眺めた。「県立
「刺激の足りねぇ街っすよ。見どころもクソもない」
「……辛木君。前々から思ってたんだけど……それはタバコじゃなくタバスコであって、タバコ感覚で吸っていいものじゃあないんだよ?」
「? タバスコはタバスコっすよ?」
「いや、うん……まあいいや」
呆れ顔の水無月の隣で、辛木は瓶の蓋を閉めた。
右手で口元を拭うと、神妙な顔で彼女に
「で、本当にこの街にいるんですね? 例の【
「ああ、間違いないよ。証拠は十分に挙がってるからね」
「じゃあさっさと捜索開始といきましょう。班長殿」
「はいはい。わかってるよ」
それから水無月は運転席の方に顔を寄せ、
「
「ええ。どうかお気をつけて」
ハンドルを握っていた老紳士は笑顔で会釈をし、そのまま真っ直ぐに車を走らせていった。去っていく車の背を見届けたあと、水無月は手にした傘をステッキのごとく持ち直して歩き出す。
「さて、行こうか辛木君。
私たちの“同胞”を捜しにね」
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