脱出
檻から出たふたりは樹皮の部屋に立った。用心深くあたりを見回す。あちらにもこちらにも、目立つ物体がたくさん飾られていた。
人間の死体である。
テーブルの上に寝かされているもの、木の枠で固定されて立たされているもの。どれも皮フをはがされて筋肉や内臓が露出している。
イクトはそのひとつにおっかなびっくり近寄ってみた。見た目に反してイヤな臭いはしない。
「なにこれ。趣味悪いな」
「プラスティネーション」
「なに?」
「遺体を保存する方法です。有機溶剤で水分と脂肪分を抜いて、樹脂と交換する」
無数のピンで固定された筋肉をながめ、シズクは感嘆の息を漏らした。
「実に精巧な仕事ですね。あの存在はかなり手先が器用で、知能も高いようです」
「なんでこんなことするんだろう」
別のテーブルの上では、死体が走る姿勢で固定されている。イクトはあちこちから死体をながめて首をひねった。
シズクは明々白々なことだと言わんばかりに短く答える。
「展示用するために」
「うへえ」
苦虫を噛んだような顔になり、イクトは死体を見た。さきほども言ったが実に趣味が悪い。
「先ほどの会話からも推察されますが、こちらでは人間が珍しいのでしょうね」
「なるほど……ちょっとまって。こちら?」
イクトがシズクの方を向く。シズクがうなずいた。
「ここは全域的現実の別の断面なのだと思います。我々が普段知覚している局所的現実とは重ね合わせの状態にあるのでしょう。特殊な方法を使わなければこちらの局所的現実を見ることも触れることも出来ませんが……」
「ちょ、ちょっと待って。要するにどういうこと?」
シズクは片眉を上げる。イクトはその表情に見覚えがあった。彼女からすれば自ずから明らかなことを説明しなければならないとき、彼女はやや面食らってこの表情になるのだ。なんでそんなこともわからないの? という意味である。
「ここは異世界です」
イクトはゆっくりとその言葉が脳へと染みこむのを待ち、うなずいた。
「オッ……ケイ。じゃあこっちの世界では昆虫が進化してる? ってこと?」
「おそらく。人間のように巨大な哺乳類がいないだろうことは確実です。あの存在――
天を仰ぐイクト。
「えらいこっちゃ」
そこで部屋の隅の黒いものが目に入った。ふたりの入っていた檻だ。それはまるで黒く巨大なクッションのようで、あるいはホタテの貝柱にも近い。同じ形のものが三つ並んでいる。
その向こうにはどういうわけか巨大な鏡がある。樹皮の世界にあって不釣り合いなほど金属質だ。
シズクがテレレンチを、まだ中身を見ていないふたつの檻に向けてかざした。小さい穴が開く。ふたりは手分けして別々の檻へ歩み寄り、中を確認する。
「あ、やっぱりいる。こっちは三人。寝てるみたい」
「こちらは四人です」
「よし。穴を大きくして助けよう」
「そうしたいのですが……」
今度はイクトが「信じられない」の顔をする番だった。つかつかとシズクに詰め寄って言う。
「見殺しにするっていうのか? そんなこと出来るわけないだろ」
「そうは言っていません。ですが」
シズクがイクトの顔をのぞきこむ。彼女の表情はほとんど動かない。だがイクトは、彼女が痛みを感じていると思った。内面の葛藤が彼女自身を痛めつけている。
「いま彼らを連れ出して、守れますか? この世界からどうやって出られるのかもわからないのですよ」
イクトは言葉もない。黒い異形の檻を見て、頭をかきむしる。
からん。
ふたりの背後で軽い音がした。
なにかの落ちた音だ。
ふたりはゆっくりとそちらを振り返る。イタズラしているところを大人に見つかってしまった子供のように。
昆虫人が立っていた。
その向こうには開いた扉が見え、見ているうちにゆっくりと自動的に閉じた。
ふたりと昆虫人の間でコンマ数秒、視線が交わされる。
気づけばイクトは一歩前に出ていた。シズクを殺すより先に自分をというわけだ……彼は内心で自嘲する。ほとんど意味のない行為だ。
じっとふたりを見つめる昆虫人の複眼を見つめている間が、イクトには数万年にも感じられた。死が迫ってくる。異世界での死だ。家族にはこの先ずっと真相は知らされないまま、失踪したという事実だけが残る。育ててくれた祖父と祖母はどう思うだろうか。一人暮らしなんてさせるんじゃなかったと泣くのではないか。
昆虫人の全身から力が抜けた。
「あ、あ、あ、あああ」
四本の脚の結節部を床へどすんと落とし、上半身だけでもがき、その場から逃げようと試みる。ふたりがどうしようもなく見つめているうちに、ようやく昆虫人は下半身の制御を取り戻した。
わめき散らしながら扉へと向かい、腕を振り回して叩く。ようやっとのことで開いた扉に身体をねじこんで外へ消えた。
呆然と昆虫人を見送ったイクトは、ぽつりとこう漏らした。
「お前が逃げるのかよ」
シズクがイクトの腕をつかんだ。
「早く逃げましょう」
まだ檻に未練のあるイクトを引っ張って、シズクは扉から廊下へ出る。
円筒形の廊下。壁は部屋と同じように樹皮で出来ているように見えるが、時折枝を切った跡があるので本当に樹皮らしい。床は円筒に樹脂を流し込んで平らにならしたものだ。てかてかと光る茶色の川のように見える。
少し離れたところの角から昆虫人のふたり組が現れた。そのひとりがイクトたちを見て、相方の身体を叩いて叫ぶ。
「大変! あれ見て!」
もうひとりも前肢を口器に当て、もう片方の肢に持っていたカップのようなものを取り落とした。茶色の液体が茶色の廊下に丸く広がっていく。
「うわあああああ!! やばい逃げろ! 食われるぞ!!」
「いやあああああああ!!」
昆虫人たちが四本の脚で逃げ去っていった。ふたりは取り残された。天井では換気扇らしきものが虫の押す力でゆっくりと回っている。照明昆虫が翅を退屈そうに動かし、壁に誇張された影を作った。
「あんなに嫌わなくてもいいのに」
「それだけ我々は異常な存在なのでしょうね」
シズクは淡々と事実を述べ、足音を殺して廊下を進んだ。廊下の分岐から頭を出してクリアリングすることも忘れない。
廊下に昆虫人は一体もいなかった。みな逃げ出してしまったらしい。あちこちになんらかの板、カップ状の物体、スナックらしきものが転がっている。
進路ががら空きだと見るやいなや、シズクが駆け出した。イクトはあわてて彼女を追いかける。
「どこに向かってるわけ?」
「外」
「でも、あの部屋に戻らないと元の世界へ帰れなくない?」
「戻ったら今度こそ殺されますよ。封鎖される前に出ないと」
「それにまだ捕まってる人もいるし」
シズクは答えなかった。イクトも彼女を追求することはできない。
廊下を曲がって、ふたりは走り続ける。
「出口がどこかわかるの?」
「いいえ」
「じゃあ俺たちはどこへ向かって走ってるわけ?」
「デタラメに」
抗議しようと思ったイクトは口をつぐんだ。廊下の壁の一部が明るく光っているのが見えたからだ。
すりガラスのように半透明な板がはまっているのだ。ぼんやりとした光が廊下にさしこんでいる。イクトが板に顔を近づけてみると、それは少し温かかった。太陽のぬくもりだ。
「よしここから出よう! えーと、どうするんだこれ」
イクトは板のあちこちを触ったり軽く叩いたりしてみる。だがそれはびくともしなかった。そもそも開くものなのだろうか? 単なる窓なのではないか。
「下がってください」
「開け方がわかる?」
「ええ」
イクトが一歩下がったその瞬間、シズクが板を蹴破った。
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