3月10日

 3月10日、卒業式が終わり、私にとって新しい一歩を踏み出す日。そして、故郷を離れる日だ。冷たい風が頬を撫でる。雪解けの道を歩きながら、私は心の中に湧き上がる感情を必死に抑え込んでいた。


 ずっと住んできたこの街を離れるなんて、思ってもみなかった。小さな町の静かな景色、見慣れた通学路、あの坂道、そして、家の近くに広がる白銀の大地。どこもかしこも、私にとっては大切な思い出が詰まっている場所だ。

 この場所に、そしてこの街に残り続けることをずっと考えていた。卒業したら地元で仕事を見つけて、家族のそばで暮らす。それが私にとって一番の幸せだと思っていた。


 だけど、私は旅立つ。

 背中を押してくれたのは、あの人の言葉だった。あの人は、私にとって大きな存在で、憧れで、追いつけないような光だった。


 空港に向かう車の中、母はいつもと変わらないように見えたけど、その手が少し震えているのを感じた。私も同じだった。

 小さな声で「行ってくるね」と告げると、母は静かに微笑んで「大丈夫よ、きっと」と言ってくれた。

 その笑顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになったけど、必死に堪えた。


 飛行機に乗り込んでから、私は手荷物から雑誌を取り出した。

 ファッション雑誌。東京の華やかなファッションが載っているページをめくる。都会のトレンド、華やかなデザイン、そんな世界に自分が足を踏み入れることになるなんて、まだ現実感がない。


「……私に、できるのかな」


 自分の声が思いのほか小さく響いた。周りにはたくさんの乗客がいるのに、まるで私だけが別の世界にいるような気持ちだった。不安で胸が締め付けられる。けれど、ふと頭の中に、あの人の声が蘇った。


『なんとかなるっしょ、菜々。そんなに難しく考えんなって!』


 本当に、いつも楽観的で、行動的で、私と真逆だった。あの人の言葉を思い出すたびに、少しだけ肩の力が抜ける気がした。


 飛行機は羽田に到着し、私は地上に降り立った。

 東京の空気は冷たくて、でも北海道の寒さとはどこか違う。

 高層ビルが立ち並び、見慣れない光景が広がる中で、私はただ立ち尽くしていた。人がたくさんいる。どこまでも続く建物、眩しいネオン。地元の静かな空気とはまるで違う、動き続ける都市の鼓動を感じた。


 まずは新しく住むアパートに向かう。古いけど、なんとなく温かみのある小さな部屋。荷物を置き、窓から見える東京の景色を眺める。

 ここが、私の新しい生活の始まりなんだ。


 夜になり、私は思い切って渋谷に出かけることにした。

 けれど、心の中はざわついていた。この新しい場所で、本当に自分がやりたいことを見つけられるのだろうか。あの人の夢を追いかけているけど、それが私自身の夢なのか、迷いがどうしても消えなかった。


 渋谷の街に降り立ち、私はまた不安に襲われた。この場所で、本当にやっていけるのだろうか。

 都会の雑踏の中で、私は自分がどれほど小さな存在なのかを痛感した。

 ふと立ち止まり、深呼吸をする。その時、目に飛び込んできたのは109の大きな看板だった。


「……ここだ、いつか連れてってあげるって言ってた場所」


 思い出が蘇る。あの人はいつも明るくて、私を引っ張ってくれていた。

『いつか東京に行ったら、109マルキューに連れてってあげるよ。あそこ、めっちゃ楽しいからさ。おしゃれな服とか適当に見て、気に入ったら買っちゃおうよ』

 そう言っていた時の笑顔が、まぶたの裏に浮かんだ。


「おねえちゃん……」


 そう、私はあの人のためにここにいる。

 5年前、突然私の前からいなくなったあの人のために。

 あの人は私の憧れであり、そして、追いつけない夢を見せてくれた存在だった。あの人はいつも楽観的で、都会的で、田舎が嫌いだった。

 東京に出て大きな夢を追いかけるのがあの人の夢だった。でも、その夢は叶わなかった。


 3月10日、あの人がこの世からいなくなった日。

 あの日から、私はあの人の夢を追うようになっていた。でもそれが本当に私にとって正しいことなのか、私にはわからなかった。

 あの人が叶えたかった夢を私が背負うこと、それが私の使命だと思っていたけれど、どこかでそれに縛られている自分も感じていた。

 でも……ここで立ち止まるわけにはいかない。


「なんでこんなに不安なんだろう。ねえ、おねえちゃんのせいなんだよ……?」


 目を閉じて、深く息を吸い込む。そして、静かに呟く。


「本当になんとかなるのかな」


 どうしようもない不安に、押しつぶされそうになっていた。


 そして私はふと目を開けた。すると、なぜかあの人がそこに立っているような気がした。あの笑顔で、まるで今にも話しかけてくるように。


「なんとかなるって、菜々。あんたなら大丈夫だよ」


 その一言が、私の心に突き刺さった。

 それまで抑え込んでいた感情が一気に溢れ出して、涙が止まらなかった。

 通りすがる人たちが私をちらちら見ていたけど、そんなことはどうでもよかった。

 ずっと張り詰めていた何かがぷつんと切れて、私はその場で肩を震わせて泣いていた。


 しばらくして顔を上げると、もうあの人の姿は見えなかった。でも、不思議と心が軽くなっている気がした。


「ありがとう、おねえちゃん……」


 そう呟いて、私は一歩を踏み出した。

 あの笑顔、あの声、そのすべてが私の中で生きている。

 渋谷の雑踏の中で、私はもう一度歩き出す。あの人の夢を胸に、私の新しい一歩がここから始まる。


 ネオンの光が私を包み込み、東京の夜に続く未来を、そっと照らしていた。

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