初めまして、結婚してください

踏み越える

「いつでも、相談してください」

「え?」


 マティスは東ヤールを後にする際、そう言ってきた。私とでは身長差がありすぎて、大人が子供の顔を覗き込むように屈む。


「古い記憶に悩まされて苦しくなった時は、いつでもデメンツと共にお伺いします」

「……ありがとうございます」


 マティスらしい、優しい言い回しだった。彼に靴を返してもらってから、フィンの呪いを解いたりルーン島の魔法陣を浄化してもらったりと忙しくて自分のことに向き合えていなかった。

 デメンツに記憶を消してもらえば、きっと心穏やかに過ごせるようになるんだろう。でも、やっと帰ってきた“まりかちゃん”を消してしまうことが怖かった。昔の自分を殺すようなことだから。


「今はまだ何も考えられません。でも『人生というのは、すぐに何もかもを割り切らなくたって良い』んですよね」


 かつて、マティスが私にかけてくれた言葉だった。この言葉に、何度も救われた。きっと、この先も。マティスは前髪の隙間から覗く目を丸くして、何度か瞬きをした。


「ええ……ええ、そうです。それでもどうにも割り切れなくなってしまったら、僕を呼んでください。パパッとやってあげますよ」


 大人に隠れて悪巧みをする子供のようにひっそりと、そしておどけた耳打ちだった。それは何でもないことなのだと、私の抱えるものは重く捉えなくても良いことなのだと言わんばかりの。実際に彼を頼るかどうかはともかく、その選択肢が与えられたことが心強かった。


「あと、僕の隣はいつでも空いてますからね」


 冗談なのか本気なのかわからない仏頂面で付け足すので、思わず噴き出してしまった。


『しつこいとマジで嫌われるよマティス』


 マティスの背負っている真新しい鞄から、デメンツの声がする。魔王の呪いとルーン島の封印を得たことで急成長した身体は、少し時間が経つと初めて会った時と同じくらいのサイズに戻っていた。『魔力が定着したんです』とのことだった。色は何故か薄桃色に変わっていた。

 最後に、マティスはノドスで私を送り出してくれた時のように笑った。


「幸せになってください」

「ありがとうございます。マティスも!」


 ノドスを出たあの日、幸せを願われるだけだった私が、今は他の人の幸せを願うことができるようになった。



 屋敷内には久しぶりにフィンと二人だけの静かな時間が帰ってきた。暖かい日が増えてきて、上着もあまりいらなくなっている。東ヤールは夏が来ると雨季になるらしいから、遠出をするなら今のうちかもしれない。せっかくならフィンの希望を優先したいのだけど、彼の呪いが解けて外出場所の制限が無くなったことで、選択肢が増えて逆に選びにくくなってしまった。嬉しい悲鳴だ。


「東ヤールを出てどこに行きたいかなんて考えたことなかったよ。生涯ここから出てはいけない、出ることはできないと言い聞かされていたから。考えないようにしていた、が正しいかな。どうしたって叶わないことに期待を持つのは、私には自傷行為みたいなものだった」


 地図を広げながらフィンがしみじみと呟く。その行為の残酷さはよく知っている。彼が自由を得られて本当に良かったと思う。あれこれ検討して世界の裏まで候補に挙げた結果、フィンが最初に行くと決めたのは意外な場所だった。


「本当にここで良かったんですか」

「そう。ここが良かったんだ」


 フィンとの初デートで来た展望台を訪れていた。今回も麓からは小バハムートくんの背中に乗せてもらった。久しぶりに会った小バハムートくんの尻尾に可愛らしい赤いリボンが巻いてあるのを、私は見逃さなかった。それはリラのツインテールに付いているのと同じものだ。

 私の視線に気づいた小バハムートくんは尻尾を地面に叩きつけて見せたけど、その威力は前よりもずっと弱くて、リボンが破れないようにとの気遣いを感じてほっこりした。それはそれとしてそれでも当たったら十分人間は死ぬくらいのやつだった。マジで照れじゃなくて“暴”の方を隠すべき。


 展望台は、今日は春の花があちこちに咲いていた。相変わらず名前は知らないけど、黄色や桃色の柔らかい花弁が風に揺れている。甘い香りがする。木々の葉は若々しさのある濃い色をしていて、今日は寂しそうな女の子はどこにもいなかった。前と同じく盛況で、家族連れから恋人同士まで東ヤールの眺望を楽しんでいる。


「前に来たのは秋の終わりくらいだったね。季節が違うとやっぱり雰囲気が違うんだな」


 一緒に暮らしていると意識しないけど、こうして改めて見るとフィンの髪が随分伸びたのがわかる。風に嬲られる黒髪は、そろそろ結んだ方が良いくらいの長さだ。


「展望台に来たかったのもあるけど、一番の目的はここからなんだ」


 一通り景色を堪能したフィンが、少年のように笑う。ジョルディに似ているけど、ジョルディよりも瑞々しい笑みだった。


 行きとは反対側の方向に山を降りた。小バハムートくんに送ってもらったけど、麓までまだ随分ある地点で降ろされた。そこからは連れ立って歩く。今日はちゃんと山歩きできる服にしたし、靴もバッチリだ。展望台は少し風が強かったけど山道の空気は穏やかで、鳥の声も聞こえていて気持ち良かった。自然と表情が緩む。

 のんびり歩きながらも、手を繋いだり腕を組んだりするタイミングは掴めなくて微妙な距離が二人の間にあった。何かしらの勢いがある時は自然と身体が動くのに、日常生活の中ではまだどこか遠慮や気恥ずかしさがあった。お互いにまだ踏み切れない“他人”感があって、世の恋人達はどうやってここを踏み越えていくんだろう。リラの積極性が羨ましい、多分あの二人は手も繋いでるしもっとステディな関係だと思う。

 子供でも登り降りできる山だから、散歩がてらに歩いているとすぐに麓に到着した。開けたスペースは駐車場になっているけど、今は一台も止まっていない。もう目の前の道を渡ればテ・ヌー市だ。そこでフィンが急に立ち止まる。


「ここまで」

「え?」


 フィンは足元を凝視して仁王立ちする。私にはただの踏み固められた土にしか見えないけれど、彼には何か別のものが見えているようだった。


「ここまで。呪われしレスター家の当主は、ここまでしか移動することはできないんだ」


 フィンの声は微かに震えていた。


「当主の座を継いでから、一度だけここまで来たことがある。魔素の濃い展望台には寄らず、真っ直ぐここにね。呪いを引き継いでしまったことは骨身に染みていたけど、それでも、東ヤールから出られないことが信じられなかった。信じたくなかった。そしてここで、ここから先に行こうとして……全身の痛みで立ち上がれなくなったよ。出血も酷くて、のたうち回って。二度と試そうなんて気にはならなかった」


 フィンは道の向こうを眺めてきゅっと目を細めた。暗紅色の瞳の淵の、決壊しそうな水滴の中で、視線は揺らいでいた。デメンツに解呪されたとはいえ、怖いのだろうと思う。歴代当主達が縛り付けられた範囲を越えることが。一度体験しているだけに恐怖に足が竦むのだ。


「ねぇフィン」


 私はフィンの手を強く握った。


「私のいた世界でね、ある遊びをする時に言う掛け声があるんです。遊び自体は、目隠ししたオニに見つからないように動くって言う他愛もないものなんだけど。その遊びの最初にね、みんなでこう言うの」


 フィンの手を握ったままで、私は前に軽くジャンプした。私には見えない一線を踏み越える気持ちで。


「はじめのいっぽ!」


 振り返った私を、フィンは目を丸くして見る。お互いの繋いだ手は伸びていて、その間に見えない境界線がある。


「こんな感じはどうですか」


 どうしたって越えられない壁があることがどういうことか、少しだけわかる。でもフィンはそれを越えられるようになったんだから、怖がらずに越えてほしいと思った。子供の遊びの延長くらい、気負わず気軽に。

 フィンは何度か瞬きをすると、私の手を握り返してから大きくジャンプした。長い脚で、私よりもずっと前に飛んだ。そのせいで私はつんのめって、フィンが支えようとしてくれたけど結局二人ともバランスを崩して、地面に倒れ込んでしまった。


「はじめの……なんだっけ」

「もう何でも良いですよ!」


 そう。何でも良い。越えられるなら、何でも良いのだ。

 許されなかった一線を越えられたことに、私もフィンも抱き合って寝転がったまま大笑いした。涙を流して笑った。土と小石と小枝だらけになるのもかまわずに。笑いが収まったその後も、フィンは泣いていた。私よりずっと大きな彼を、私は抱きしめた。柔らかな黒髪を撫でる。そよ風が泣き声をそっと受け止める。

 きっとこれで上書きできた。

 次にフィンがここを訪れた時、思い出すのは血の臭いでも痛みの恐怖でもなく、私と大騒ぎして泣き笑いしたこの日のことなのだ。春の土と風の匂いと、笑い声を。

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