来訪者2
「靴を預かっていただいた時、先生は私の気持ちに折り合いがついたら返すと約束してくださいました。だから、こちらから連絡していないのに手紙が来たことが不思議でした。先生は簡単に約束を違えるような人じゃありません。それを反故にしなければいけないほど切羽詰まった状況なのだろうと思いました。わざわざ誰にも伝えていなかった私の居場所まで調べ上げて。そこまでして古い靴を私に返さなければいけない状況って、何でしょう? そこまで考えて、逆なのじゃないかと思ったんです」
エリィはマティスの様子を伺うように、一度言葉を切った。彼は目顔で続きを促す。
「私に靴を返すことではなく、この屋敷に来ることが先生の本来の目的だったのではないですか。もっと正確に言うなら——フィンに会うこと」
「私に?」
突然話の矛先が自分に向けられて、思わず声が出る。
マティスはエリィを見つめたまま答えない。表情が、肯定を示していた。
「そう。先生はフィン、貴方に会いたかったんです。多分ですけど……何かの事情、魔素欠乏症とはまた違う魔素を多量に必要とする何かの困りごとがあって、フィンに早急に会う必要があった。レスター家に対しての用件であれば他の一族の方を当たるが適任だから、この屋敷に来る必要はありません。だけど、フィンでなければいけないとなれば、魔素についてのことのはずです。一番手っ取り早い方法は東ヤールの王立医療院に出向くことだけど、魔素欠乏症でない人が行っても院長のフィンに辿り着くまでは時間がかかる。屋敷を訪ねるにしたってそう。ルーン島の屋敷は普通の人間が立ち入れる場所じゃないし、別宅のここでだって、見ず知らずの人にいきなりお話しましょうと言われて快く迎え入れてくれる可能性は低い。レスター家の当主という肩書きなら余計にです。そしてどうにか取り入るためのツテを探そうとしてフィンのことを調べているうちに、偶然私に行き当たった。私と確実に会える理由を、幸運にも先生は持っていた」
自信のなさそうな前置きを挟んでいたが、エリィの口調は断定的で力強かった。
エリィを見つめるマティスの表情は随分と柔らかくなっていた。僅かに垂れた目尻に、教え子の成長への喜びが現れていた。この短い時間で、少しだけ彼の感情表現に慣れた気がする。マティスはエリィが言葉を切ったタイミングでフーッと大きく息を吐くと、彼女に向かって深々と頭を下げた。
「貴女の大切なものを利用してしまったこと、お詫びします」
「いえ、あのっ、頭を上げてください先生。私こそ、こういう機会でもないとちゃんと過去に向き合えなかったと思うんです。むしろお礼を言わないといけません」
エリィは手と首を振って恐縮した声をあげる。頭を上げたマティスは、緩く目を細める。
「……ありがとう。そして、あの手紙だけで、丁寧に読み解いてくれたことにも礼を言います。僕は今、とても嬉しく思っています」
「どこまで合っていましたか」
エリィは教師の添削を待つ生徒のような表情で小首を傾げる。ノドスでもこんなやり取りをしていたのだろうか。
「ほとんど正解と言って良いです。僕がレスターさんを訪ねたかった理由は少しだけ違っていますが、それは貴女の手に入れられる情報から推測するのは不可能でしょう。優等生に拍手、です」
マティスは軽く手を打った。エリィが誇らしげに背筋を伸ばす。
「あと、僕は貴女のことを生徒ではなく友人と思っています。先生と呼ぶのは止めてください。マティス、で良い」
「友人……ありがとうございます」
エリィの口元が照れ臭そうに綻ぶ。
「それで、私への用件とはなんでしょうか」
二人の会話に割って入るように私は声を張った。二人だけの空気に晒されるのは沢山だった。
「レスターさんに、お願いしたいことがあるのです」
そう言うと、マティスは大きなリュックから四角いものを取り出しテーブルに置いた。それは薄紅色の正方形の箱だった。ケーキ箱程度の大きさで、よく見ると箱自体は透明の容器だった。みっしりと、隙間なく“薄紅色の何か”で満たされているのだ。
「貴方の使い魔ですか」
私はマティスに問いかけた。
「え、これに魔獣が?」
魔術師でないエリィには感じ取れないらしい、怪訝そうな顔で箱を見つめる。
箱一杯に詰まったモノから、強力な魔物の気配が漂っていた。テオが嫌な顔をしたのも頷ける。隠すように屋敷内に持ち込まれた魔物が私の側に近づくことを警戒したのだろう。リュックには魔力を目隠しする術がかけられているようだ。
「いえ、彼——性別はないようなのですが二人称で呼ぶ時は便宜上“彼”としています——は使い魔ではありません。そもそも、僕は魔術師ではありませんから。彼は、エリィと同じで僕の友人です」
箱の蓋が一人でにカタリと開いた。薄紅色のゼリー状の一部がぬるりと這い出す。はみ出した塊は鎌首をもたげ、横一文字に切れ目が入る。そこから赤黒く平たいモノが垂れた。初めて見るのに本能的にそれが口と舌であることがわかる。
『初めまして』
耳でなく、脳に直接響くような音だった。ゼリーの塊の声は、複数の男女が同時に言葉を発したような声色をしていた。
『デメンツと申します』
デメンツと名乗った魔獣はお辞儀をするように頭(と思わしき部分)を一度下げた。
「彼とは去年、西南の砂漠の国で出会いました。数年前、僕はノドスの施設長職を辞して旅に出たんです。もしかしたら、エリィのような境遇の人が他にもどこかにいて苦しんでいるのじゃないかと思ったのがきっかけです。あくまできっかけですが。結論としては、今の今までそのような出会いはありません。それでも旅はそれなりに楽しく、有意義でした。旅の収穫の一つが、デメンツという友人を得たことです」
デメンツはマティスの話を遮ることなくテーブルで静かにゆらゆらしている。風船を思わせる動きだった。
「彼は砂漠の遺跡に封印されていた魔物でした。彼自身に人間に対する悪意はありませんが、彼が糧とするものが少し厄介なのです」
封印、という言葉に少し身構える。目の前の魔物は確かに魔族の中でも上位種のようだが、今のところ封印を施されなければならないほどの存在には感じられない。むしろ弱っているようにすら見えるくらいだ。
「何を糧にしているんですか」
「記憶です」
マティスは特に勿体ぶることなく即答した。デメンツが肯定するかのように一度大きく揺れた。
「記憶……」
エリィが噛み締めるように口の中で呟く。
「特に人間の記憶を好んで摂取します。封印されたのはかなり昔のことのようで、知識を記録し、それを保存するということが今よりも簡単でなかった時代と思われます。情報を共有し、共同体を守り発展させるのに、デメンツという魔族は非常に脅威だったことでしょう」
具体的な年代はわからないにしても、ルーン島の魔王よりもずっと以前の話と推測できる。
「僕達はすぐに打ち解けました。もう一度言いますが、彼自身に人間に対する害意はありません。僕はどうにか友人が再びの封印を施されず、このまま共存できないかと模索しているところです」
マティスはデメンツを見遣る。二人の間にどんな交流があったのかはわからないが、親密であるのは確かなようだ。
「他の方々に迷惑をかけないように、今は僕の記憶だけを食べるようにしてもらっています」
「それは……そんなことして大丈夫なのですか」
天気の話でもするように軽い調子で語るが、いくら友人と言っても身を捧げすぎではないのか。
「簡単なことです」
マティスは荷物から分厚い書籍を何冊も取り出してテーブルに広げた。どれも何度も読み込んだようで、表紙も中のページもぼろぼろになっている。
「僕の愛読書です。記憶を無くしてもう一度読みたいと思うほど好きな小説を厳選して持ち歩いています。これを毎日読んで、デメンツに食べさせています」
その場でぱらぱらとページを捲って見せる。古びた紙の匂いがルーン島の屋敷の書庫を思い出させた。デメンツの口が薄く弧を描いた、彼なりの笑顔と言ったところだろうか。
「しかし、やはりそれだけでは彼の腹を満たすことはできません。少しずつではありますが、確実に衰弱してきているのです。かといって、記憶を食べさせて欲しいという要望は人を選びます。そこで目をつけたのが、ルーン島の魔王の封印です」
マティスは全く視線を逸らさず、私の方を見つめて続ける。隈の浮いた両目は全てを見透かしているかのように動じない。
「ルーン島の……封印」
千年前の魔王封印の逸話自体は特に世間に隠しているわけではない、マティスが知っていても別に不思議ではない。ただ東ヤール地方以外ではあまり語り継がれていないはずなので、少し意外ではあった。
「ルーン島に魔王が封印されているという伝説は以前から知っていました。当時の様子について語られている書籍が今もノドスにあるはずです。あの封印の魔法陣の中には、禁術の生贄になった人々、魔王の犠牲になった人々の悲しみの記憶が眠っているはずです。術が消えてしまった今もまだ残っているんじゃないかと、それを分けていただけないかと思ってこちらに伺いました」
……封印の消失まで既に知られているということは、魔王の顛末についても同じくなのだろう。
『あれほどの魔力の動きは、離れた国にいても魔族には感じとれますので』
デメンツが何てこともないような口調で補足する。
魔素を狙うならともかく、あの地に染みついた忌まわしい記憶をデメンツが食べることは何の問題もない。こちらに特にデメリットがないからこそ、マティスもこうして堂々と——訪問の約束の取り付け方はそうとは言えないが——交渉しに来たのだろう。
全てお見通しなのだ。
レスター家が長年魔王の封印に苦しめられてきたこと、たった十数字の手紙一通でエリィがこの家にマティスを招き入れることまで、全て。
私はマティスとデメンツの両者に交互に視線をやると、はっきりと聞き取れるように端的に返した。
「お断りします」
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