胸の内
「……以来、先生とは会っていません。季節の挨拶の手紙くらいは何度かやり取りしましたけど、それも何年も前に途絶えていました。彼がいたからこそ今の私があるのはわかっているけど、辛い記憶と紐づいてしまっていて、積極的に思い出すことはありませんでした。マレス家に引き取られてからは、以前お話しした通りです。義父も義母もとても優しくて、私は先生から貰った名前の通り、たっぷりの愛情を受けて育ちました。友人にも恵まれました。ノドスで得た知識は、先生が言っていたようにその後の生活で私を大いに助けてくれました。この世界での振る舞い方を知らない私を守ってくれました。残念ながら、記憶力も理解力も大分落ちてしまっちゃったけど」
エリィが落ち着きを取り戻す頃には、日は傾きかけていた。春とはいえ、暗くなるとそれなりに冷えた。テオが暖房を強めてくれた。エリィの様子が珍しかったのかちらりとこちらに視線を寄越したが、何も言わずすぐに去っていった。
私はエリィが話す間、自然と彼女のことを抱きしめていた。彼女が震えていたのは決して寒さのせいではなかった。こんなに細く小さな身体で、たった一人で、ここまで大きな秘密を抱えていたのか。子供の時であれば、尚更どれだけの苦しみだったろうか。
異世界からの来訪者。
召喚士として魔術を学んでいく中で、異世界の壁についての話は誰もが学ぶ。別世界から人間がやってくるという話はおとぎ話レベルでなら確かに存在する。そして彼女が聞かされた通り、こちら側から転移するのは不可能というのは、召喚士の中では常識だった。
エリィの一方的な話だけで全てを呑み込めるのは、彼女の持つ特殊な魔素受容体について知っているからだ。これほどの症例が今まで報告されてこなかったというのは不自然すぎて、突然別の世界から来たという方が逆に納得できるくらいなのだ。言葉通り、彼女はこの世界で唯一無二なのである。そしてそれは、彼女がこの世界での異物であることをはっきりと示していた。魔王の呪いについて私がエリィに打ち明けた時、私がどれだけ長生きするかを彼女がやたらと気にしていた理由がやっと真にわかった気がした。「末永く共にいられる家族」を求めていたのだ、私が思っていたよりもずっと強く。誰よりも孤独を恐れていた。彼女は、もうそれを十分に味わいすぎている。
エリィはどこかすっきりしたような表情をしていた。私から身体を離すと、ティーカップを持ち上げる。中身はすっかり冷たくなっていたが彼女は意に介さず飲み干した。空になったカップの底を見つめて、細い糸を手繰り寄せるようにそっと言葉を続ける。
「……でも、日々の生活で幸せを感じる度に、心のどこかで罪悪感もありました。あの日切り離した“まりかちゃん”が、どこかで泣いている気がするんです。あれほど帰りたかったのに帰れなかったあの娘を、私の心にさえ帰さずに追い出してしまった。あの娘が寂しいままずっと、少し離れたところで、窓の外で私を見ているんです」
エリィは新しい涙を拭う。視線は私の後ろに向いている。そこには窓がある。
事あるごとに彼女が窓に視線をやっていることには気づいていた。単に無意識の癖だとしか思わなかった。私が同じところを見ても、いつも何も無かった。エリィは窓の外に、“まりかちゃん”の幻影を見ていたのだ。今も。今は、私の目には静かな夜気だけが外に広がっている。彼女の瞳には小さな女の子が映っているのだろうか。
「いつか、まりかちゃんを迎えに行かなければいけないと思っていました。特にこの頃は貴方がいてくれて、安心していられる時間が増えたから。もう一人じゃないから、やっとあの娘を孤独から救ってあげられるんじゃないかと。でも、なかなか踏ん切りをつけられずにいました。今日この手紙を受け取れたのは、良いタイミングだったのかもしれません」
エリィは口元に笑みを浮かべるほどに自分を取り戻していた。その後は多くを語らず、こちらも無理に聞き出すことはなかった。
ただ、今の話を聞いた限りではエリィがここに住んでいることをマティスが知っていた理由がわからなかった。
もう何年も連絡をとっていなかったのに、一体どうやって?
私よりも、当事者であるエリィの方がずっと落ち着いていた。
「先生から連絡がきたことに関しては、あんまり不思議に思ってません。何というか、あの人にならそれができるだろうなという確信があるんです。強いて言えば……ジョルディが私の身辺調査をしたことがあるみたいなので、その使いの者がノドスにも聞き込みに行ったんだと思うんです。その時に先生は私とフィンの接点を知ったのかもしれません」
彼女が冷静になればなるほど、私の心は落ち着かなくなっていった。私を信頼して過去の傷を曝け出してくれたにも関わらず、胸の内に随分浅ましい感情が湧き上がってくる。
マティス。
私どころか、彼女の養父母すら知らなかった本当のエリィを知る男。今の彼女を形作る礎を作った男。それが今になって、エリィに再び近づこうとしている。
醜い感情が膨れ上がっていくこと、この感情の名前が嫉妬であることに戸惑っていた。
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