行方は知らず

冬部 圭

第1話 想いの行方

 届かなかった想いはどこへ消えて行くのだろう。淀んだ心の中に今も漂っているのだろうか。そうだとしたらどうだろう。今も残っていることが嬉しいのか。懐かしいのか。そんなことを望んだ自分が気恥ずかしいだろうか。何を望んだか忘れてしまえばこんな思いをすることもない。覚えていることは少し重たくもある。だけど、その瞬間は純粋だったと思う。


「恋は知らない。したことないもの」

 別にはぐらかそうとしたわけではなかったけれど、桃ちゃんは納得しなかったみたいだ。病院暮らしが長すぎてと笑ったけれど、「少しくらいあるでしょ」と猫のような目をきらきらと輝かせる。そういう話をしたくてずっと初恋の話をしてたのかと少し納得する。桃ちゃんの初恋の彼は今度どこかの誰かと結婚するそうだ。「看護師の仕事をしているとなかなか出会いがない」なんて嘆いている。

「高校の頃は伸也君と付き合ってたんでしょ」

 妹の可奈からなにか聞いたのかな。可奈はそんな風には言わないだろうけれど。

「それがほんとなら、伸也ってひどい男だね」

「伸也君」は可奈の夫なので義弟になる。

「少しくらいあるよね? 誰かにときめいたこととか」

 少しくらいか。高校のときあったかな。

「そうだね。あったよ。ときめいたことなら」

 昔、ときめいたことがあったな、なんて思い出す。私の中ではあれは恋ではないのだけれど。


 もともと体は丈夫じゃなかったから、半分は覚悟してた。一年生のときは半分くらい保健室。二年になってからすぐに体調を崩して入院。留年した。二回目の二年生を前にして退学も考えたけれど、一応やめなかった。

 朝になると幼馴染の真由美と一緒にバスに乗り、学校に着くといつも保健室。保健室には私の机と椅子を用意してもらった。保健医の和木先生といつも二人。昼休みには真由美が顔を出し、放課後には真由美の弟の伸也が迎えにきてくれて。


「ほら、深沢君が迎えに来たよ」

 和木先生が声をかけてくれる。真由美は吹奏楽部の練習でいつも帰りが遅い。だからなのか知らないけれど伸也は毎日放課後に顔を出す。昼休みに来ないのは真由美と顔をあわせたくないのかななんて思う。伸也がいつも学校前のバス停まで送ってくれる。


 ある日、保健室でゆっくりしすぎて帰りのバスに乗り遅れた。

「今日はバスに、遅れたね」

 次のバスは一時間半後。

「どうする?」

 といいながら伸也は自転車の後ろを指す。二人乗りに適しているとは思えない自転車だけど。そんな伸也が微笑ましくて後ろに乗せてもらうことにする。

伸也の自転車が少しきしみながら進む。頬にあたる風が心地よい。自転車の後ろに乗せてもらうのは久しぶり。なんか幸せ。息を切らせながら峠を上る伸也。高校生みたいだ。私。

「自転車って、疲れそうだね」

 小学生のとき以来、自転車には乗ってない。二人乗りなんか当然できない。伸也が羨ましい。

「かわってあげないよ」

 このあたりの受け答えは伸也らしいと、変なところで感心する。

「下りになるから」

 落ちないように伸也の制服の袖をしっかり摑む。自然に伸也の背中に体を寄せることになる。伸也の匂い。道端の木々の匂い。いつもはバスの窓から見る景色の中にいる。生きてるって感じがする。こんなのもいいな。


 その日から天気がいい日には伸也の自転車に乗せてもらうことにした。地蔵堂の横に、峠道の脇に、堤防の上に、小川の中に、今まで見えてなかった世界が広がっていた。時には自転車替わってもらって、乗ってみたりもした。伸也は心配そうにしながらも隣を走っていた。


「こんにちは」

 昼休み、今日も真由美が保健室にきてくれる。和木先生にちょこんと頭を下げて中に入る。和木先生はいつも真由美が来ると職員室に戻る。私も鞄を取り寄せお弁当を取り出す。取り留めない話をしながらお昼を食べる。一昨年とかわらない。

「もうすぐ文化祭だよ」

 文化祭か。なんか楽しいことあるかな。梅雨の時期、休みの日も特にすることがないので、暇つぶしくらいにはなる。一応という程度でクラスがあるけれどクラスメイトを一人も知らない。クラスの出し物が何でもあまり関係ないと思う。

「演奏があるから、観に来てね」

 吹奏楽部の演奏は毎年恒例になっている。真由美は部長をやっているので張り切っているみたいだ。何を演奏するのか聞いたけれど真由美は「いろいろ」としか答えてくれない。何を手伝えるわけでもない私は今年もお客さん状態になっちゃうのかな。体育祭に比べるとましだけど。

「美奈も何かしたら」

 そんな気持ちを察したのか真由美が話を振ってくれる。文化祭に向けて何かをするつもりはないけれど何か作ってみようかな。詩を書く、写真を撮る、彫刻なんかどうかな。久しぶりに絵を描いてみたいな。中学校の美術部のとき以来描いてないけれど。木炭画みたいなものなら何とかなるかな。そう真由美をモデルにしてとか。頼んだら断るだろうな。じゃあ秘密にしよう。でもどうやって描こう。

「何かやってみる」

 そう答えると真由美は「何を?」と聞いてくる。「いろいろ」と答えて二人で笑いあう。「できるかどうかわからないから」とごまかして、作戦を練る。そう、時間はある。

 放課後伸也が顔を出す。伸也は私の顔を見るなり、

「何か企んでる?」

 と尋ねてくる。顔に出てるのかな。伸也にはどうしても読まれる。でもここは知らない振りしよう。そう決めてとぼけた答えを返すと「気のせいか」と溜息をつく。溜息をつくことはないと思う。さすがに口には出さないけれど。そんな私の様子に気がついた様で「ごめん」と伸也は素直に謝る。察しがいい。真由美はいつも「伸也はほんとに鈍いから」と溜息をついているんだけど。

 帰り支度をはじめると伸也は学校のこと、いろいろ話してくれる。文化祭の準備のこととか生徒会選挙がもうすぐだとか。伸也のクラスは何をするのだろう。自分のクラスよりも気になる。伸也が楽しそうに話してくれるからだろうな。


 伸也といるときは普通の高校生になった気分だったな。ホームルームの雰囲気、いろいろな行事、授業中の些細な事件、遠い街の出来事のように感じていた学校の中のいろいろなこと、全部。真由美が気を使って教えてくれないこと、話してくれないことを伸也は普通に教えてくれた。こうやって思い出すと伸也あっての高校生活だったなとつくづく思う。


「退屈でしょう」

 桃ちゃんに聞くと

「楽しいよ」

 と意地悪な答えが返ってくる。別に恥ずかしいとは思わないけれど、聞いていて面白い話でないと思う。話していても楽しくないし。そんなに聞きたい話でもないだろうに。ここから面白くなるとでも思ってるとしたら誤解だ。

「で、文化祭で何があったの?」

「そんなに楽しいことじゃないよ」

 そう、楽しくはないな。


 家に帰って画材を探す。結構なくなっている。そういえば中学校を卒業したことになったとき伸也にあげたっけ。色をつけるのは無理だな。やっぱり鉛筆で描こう。時間はあるから。スケッチブックに4Bの鉛筆。鉛筆削り用のナイフと消しゴム。これだけあれば。まずは練習しようか。手始めに可奈を描いてみよう。可奈は嫌がるか。それなら悟られないように気をつけて。


 それから数日、いろいろなものを描いた。保健室の風景、うろ覚えの小学校の校舎、地蔵堂のバス停、そして真由美の後姿。


 吹奏楽部の演奏は昼からになっていた。午前中は真由美と二人で展示物を見ることにする。

「美術部で展示してるよ」

 真由美に誘われて三階の美術室へ行く。中学校のとき美術部だったこと覚えてるみたいだ。ほとんど参加できなかったんだけど。まぁ伸也が美術部だったからかもしれない。美術室に美術部員は一人もいないようで、三人組の小母さんが絵を見ている。生徒の父兄だろう。

「この絵、綺麗」

 真由美が一枚の絵を指す。私が描いた絵が展示されている。ちょっとびっくり。保健室の机の中にしまっておいたはずなのに。勝手に貼っていいのかな。まあ私が貼ったわけじゃないか。それに私が描いたのも、真由美がモデルなのもわからないから問題ないだろう。絵は後姿だし、私の絵を見た人ことある人も少ないだろうし。実際真由美は気付いてない。気付いたらどんな顔するか気にはなるな。真由美は済ました顔で他の絵を見ている。野菜などの静物が油絵の具で描かれていたり、水彩のスケッチがあったり。見劣りすると思うんだけどな。色も無いし。

「どこがいいの?」

「やさしい感じ。丁寧だし」

 そうか。描きたい絵を書いたから。鉛筆だからかも。

「多分モデルに対する愛情だよ」

 と答えると、真由美は

「流石元美術部。言うことが芸術家みたい」

 と笑った後、

「誰が誰を描いたんだろうね?」

 と私に聞いた。他の絵には学年と名前が入っているけれど、私の絵には何もない。私があなたをとは言いたくないし、嘘もつきたくないので、

「美術部員に聞いてみたら?」

 と話をそらす。美術部員はどこに行ってるのかな。誰が絵を貼ったんだろう?


 昼休み、真由美は演奏の準備に音楽室へ行く。一人保健室へ向かう。体育館から出てきた伸也と会う。隣の竜君が先に気付いて声をかけてくる。

「美奈さんだ、久しぶり」

 竜君は伸也と同級。家が近いから小さい頃から知ってる。ただ、高校に入ってからはじめて会うんじゃないかな。

「部長は?」

 竜君は女の子が多いという理由で吹奏楽部に入ったと伸也が言っていた。もともと生真面目な真由美は苦手なのに。二人とも軽口が多いから本当のことはわからないけれど。

「もう準備に行ったよ」

 そう答えると

「じゃあ俺も行こう」

 と慌てた様子で駆け出す。集合時間を忘れてたのかな。

「頑張ってね」

 聞こえるかどうかわからないけれど声をかける。

 竜君が見えなくなったので、保健室に入る。なんとなく伸也もついてくる。

「姉さんの絵を描いてたんだ」

 伸也は気付いたようだ。中学校の美術部で私の絵を見たことがあったからか、真由美の弟だからか。まあどちらでもいいけれど。

「真由美は気付かなかったけどね」

 と答える。

「竜も気付かなかったよ。きっと美人だって言ってた」

 そうか、それは楽しいな。机に座って中を見る。スケッチブックは残っている。机の上に広げると伸也も覗き込む。他の絵は残っている。

「いつの間に貼ったの?」

 事情を知らない伸也はそんなことを言ってくれる。私もいつ貼ったのか知らない。どうして展示してあったのか、伸也に相談してみよう。

「書きたいから書いただけ。別に展示するつもりも無かったんだけど」

「じゃあ何で?」

 生返事が返ってくる。伸也の関心はスケッチブックのほうみたいだ。可奈の絵、描いているの気付くかな。

「知らない。誰にも言ってなかったのに」

 伸也は少し驚いたようだ。何に驚いたかわからないけれど。

「誰かが気付いてやったと思うけれど」

 誰が何のためにかわからない。

「嫌がらせなのかな」

 呟く。

「そんなことは無いと思うけど」

 やんわりと伸也が否定する。何を言えばいいかわからない。何を言っても言質をとられそう。じっと黙って伸也の手元を見ている。

「絵はずっと机の中に」

 一応話し掛けてくれるけれど、伸也の眼はずっとスケッチブックに向かっている。

「昨日持ってきたばかり」

 昨日の放課後から今朝までの間で誰かが?

「描いたのは?」

「描きあがったのは先週」

 誰も知らなかったはず。だから、昨日の放課後誰かが気付いて貼ったのだろうけど。伸也は本気で相手をしてくれないのでベッドの上に横になる。

「スカート、しわになるよ」

 最近伸也は小言が多いな。そんなことより気にしたほうがいいことがあると思うけど。

「疲れたから」

 そう言い訳して目を閉じる。暫く無言の時間が続く。

 ふいに、からからと乾いた音を立てて保健室の扉が開く。誰が来たのかベッドからではわからない。

「あ、伸ちゃん」

 可奈の声が聞こえる。命拾いしたな伸也君。

「お姉ちゃん知らない?」

「そこにいるよ」

 伸也は声をひそめて答える。可奈は私が眠っていると思ったようだ。伸也に騙されているなと思ったけれど口に出すほどのことでもない。おとなしく寝とこう。

「伸ちゃんの絵?」

 可奈が伸也に尋ねている。多分私のスケッチブックを二人で見ているのだろう。可奈でさえ伸也の絵と私の絵の違いがわからないのか。それなら美術室の絵も私の絵と気づく人は少ないだろうな。

「美奈さんの」

 二人のやり取りを聞いているうちに本当に眠くなった。

「そろそろ演奏はじまるよ」

 保健室の時計を見て伸也が教えてくれる。

「そうだね。聞きに行こう」

 そう答えて体を起こす。


「文化祭のときの絵、誰が書いたか聞いたよ」

 真由美は文化祭の後、文化部の部長さんの集まりで聞いてみたそうだ。

「誰だって?」

 誰と言われても構わないのだけれど。

「知らないって」

 騒がなかったから。美術部員は部員の誰かが貼ったと思っていたらしい。後で誰のいたずらかと話題になったとき、部員以外が貼ったらしいことに気付いたそうだ。

「暢気だね」

 一言感想を言うと真由美が笑う。別に大問題というわけでもなく、不思議だというくらいで話は収まったらしい。別に不思議でもないと思うけれど。描いたのは私だし、私は気まぐれだから。ちょっとした悪戯と言えば真由美は納得するだろう。

「それで絵はどうしたの?」

「いつの間にか無くなっていたんだって」

 不思議でしょうと真由美が笑う。

「綺麗な絵だったから欲しかったのに」

 と言い訳のようにつけくわえると、

「私も欲しかったな。描いた人見つけて何か描いてもらったら」

 と嬉しいことを言ってくれる。

 ああいうことにならなかったらあの絵は真由美のものだった。せっかくびっくりさせようと思っていたのに。


 放課後、伸也が保健室に来てくれる。絵の話をすると「なくなったのか」と呟く。多分絵を貼った人がもって帰ったのだろうけれど。真由美にあげようと思っていたことを伝えると、

「絵が何処に行ったかなんて本気で調べればわかるよ」

 と伸也は真面目に答える。

「自信、ありそうだね」

 からかうと、

「もちろん」

 と一転しておどけて胸をはる。何か微笑ましい。笑ってしまっていたのだろう。

「賭けてもいい」

「何もいらないよ」

「じゃあ、わからなかったら何でも言うこと聞くよ」

 伸也はむきになって答える。そんな様子が面白い。

「じゃあ私も。ひとつだけなら」

そう答える。特に無理なことを言うつもりはないし、伸也も言わないだろう。

「絵を持ってきたら伸也の勝ちだね」

 そう言って笑うと、伸也は

「約束だからね」

 と念を押した。真剣な眼差しだった。


 それから数日経って伸也は本当に絵を見つけた。静かに保健室の引き戸が開いて、伸也が入ってくる。窓に映る姿が誇らしげだ。

「負けたみたい」

「約束、覚えてる?」

 背中から聞こえる伸也の問に応えて小さく頷く。負けたというのかな。期待してた気もする。

「何をお望みですか?」

 おどけた調子で尋ねてみる。

 しばしの沈黙。息が止まったかと思うような静寂を感じる。

「生きることを、諦めないで」

 伸也は笑おうとしている。そんな声。暖かい言葉だと思う。だけど残酷なお願い。伸也は言葉を継ぐことができない。再びしばしの沈黙。自分の鼓動が聞こえる。そして、伸也の鼓動も聞こえてきそう。

「約束は守るよ」

 窓の方を向いたまま、振り向かないで答える。「ありがと」伸也も一言。心地よい沈黙の中を時が流れていく。


「あの時は伸也のこと好きなのかな?って思ったな」

「それを恋と言わないの?」

 桃ちゃんはよくわかっていないみたいだ。複雑そうな顔をしてる。あの頃の私もよくわからなかった。今はそれが恋でなかったと自信を持って言える。


 あのときと伸也に対する気持ちは今も変わらない。だからまだ、諦めてないよ。

だけど、もしあの時私が勝っていたら何を頼んだかな。伸也みたいに気のきいたこと言えたかな。私が伸也に望むことはただひとつ。それを口にできたかどうかはわからないけれど。

「いつまでも、私のことを忘れないで」

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