灰歴史
墨憑重
一章 灰色の髪
第一話 形見の鏡
一話 形見の鏡
記憶というものは、人間の一部といっても過言ではない。
一つ考え事をしていただこう。
ある朝、あなたはベッドの上で目覚た。今日は月曜日だ。憂鬱な気分で体を起こすと、机の上にチョコレートが置かれているのに気がついた。自分で置いたものではない。
次の日の朝は、キャンディーが置かれていた。その次の日の朝は、クッキーが置かれていた。
その次の日も、そのまた次の日も、毎朝違うお菓子が置かれていた。なんて幸せな事だろう。
8回目の朝。再びの月曜日だ。今日のお菓子はなんだろうと考えて目を覚ます。チョコレートであった。
あなたは明日のお菓子はなんだろうと予想をしたくなる。次の日、キャンディーであった。もう気がついただろう。
では明日のお菓子はなんだろう。無論、クッキーであった。
至って単純な事だ。曜日ごとに決まったお菓子があなたへと贈られる。月曜日にチョコレートが贈られた事、火曜日にキャンディーが贈られた事、覚えているだろう。記憶を根拠に予測した。
人は過去の経験を保持することができる。必要な時に思い出すことができる。記憶があるからこそ、人は学習することができる。
なんと素晴らしい事だろう。
あなたにはもう一つ考えていただくとしよう。
あなたは今学校で、授業を受けている。勉強は得意ではないので、ほとんど上の空だ。
そんな日常が突然、非日常へと移り変わる。拳銃を携え、覆面をつけた人間が勢いよくドアを開けて突入してきた。テロリストと言うやつだ。
静かだった教室は一変し、大パニック。しかしあなたは違う。「やれやれ面倒なことになった」なんて考えながら、テロリストに歩み寄る。
テロリストは「それ以上近づいたら撃つぞ」と声を荒げる。あなたは怯えていない。むしろ、「撃てば?」などとすかした態度で答える。テロリストが引き金に手をかけるその刹那、あなたはカンフーの達人、異世界を救った勇者、はたまた悪魔の末裔・・・。その辺はご自由に。あなたはテロリストを殴って気絶させて見せた。クラスメイトからは歓声が上がる。
いかがだろう。この話に既視感を覚えた人は多いのではないのだろうか。他にもある。
全校生徒の前で、ピアノを弾き上げる、ギターを弾き上げる、一曲歌い上げる。あなたはクラス1の美男または美女と内緒で付き合っている。あなたは天才ハッカーである。エトセトラエトセトラ・・・。
誰だって理想の自分を持っている。それは決して悪い事じゃない。なにせ、当時の自分にとっては輝かしい理想だったのだから。だが、あくまで「当時の自分」である。大人になって思い返してみれば、苦痛に感じることもあるだろう。
これを人間の言葉で「黒歴史」という。思い出したくはない暗黒の記憶。この文章もいずれ・・・。やめておこう。
少し話が逸れてしまったが、記憶というものは素晴らしい。
だが、誰からも忘れ去られてしまった記憶があるというのならば、何と呼称すべきだろうか。これは、そんな物語である。
進級、進学、就職、環境の移り変わりも落ち着き、桜は緑に変わっている。そんないつも通りの朝に御神颯人みかみ はやとは目を覚ます。ダンボールの上で。ベッドはない。勉強机もない。子供が暮らしている。しかし、子供部屋と呼ぶには程遠い様相である。だが、見窄らしくとも清潔である。掃除の成果の表れだろう。ここは屋根裏部屋である。
颯人は、窓から日光を浴びる。この部屋で懐中電灯以外で唯一の光である。12歳、中学一年生にしては、同年代の子どもと比べると少し小さく、細身である。そんな華奢な身体を最大限伸ばす。いくら華奢であっても、屋根裏部屋なため、天井に手がついてしまう。そしてほっと息をつく。
その後、足元に佇む古びた写真立てに目をやり、しゃがみ込んで優しく微笑む。
「おはよう。お母さん、お父さん」
笑顔で、しかし切なげにつぶやく。
颯人と両親の家族写真だ。彼はまだ幼く、母親に抱えられている。誰がどう見ても幸せそうな家族である。
しかしもういない。両親は9年前、颯人が3歳の時に事故で亡くなっているからだ。
ぼんやりと写真を眺めた後、そっと元の場所に戻す。
次に彼はきちんと畳まれている制服に手を伸ばす。着替えをするのだ。寝巻きを脱ぎ、黒色のズボン、ワイシャツ、赤色のネクタイ、ベージュのベストの順番で着用していく。
着替えを終えると、写真立ての隣置いてある手のひらサイズの鏡を拾い上げる。家具と呼べるものはこれで全部だ。そして、颯人は鏡を眺める。
もちろん自分の顔を見ているのではない。親との数少ない繋がりである遺伝子、すなわち自分自身の肉体を大切にしているが、彼はナルシストではない。
母親の形見である鏡を眺めているのだ。円形で、裏には太陽のような紋章が描かれている。
鏡である以上否応なしに自分の顔が映る。彼は白銀の髪を弄る。数年は床屋に行っていないため、耳は完全に隠れ、目にもかかっている。しかし彼に校則を口うるさく説く度胸をもった教師はいない。誰だって闇には触れたくないものだ。
彼は髪が跳ねているのが気になるようだ。頭の頂点が跳ねている。何度押し込んでも戻ってくる。彼は諦めたように鏡をハンカチでくるみ、ズボンのポケットにしまった。学校へ行く準備が整ったら、スクールバッグを携え、下の階に向かう。
リビング及びダイニングについた。キッチンからリビングを見れるような設計だ。
颯人はリビングに目をやると、酒瓶に囲まれて机に突っ伏して寝ている女性に気がついた。
彼女は颯人の母親の妹、即ち叔母だ。颯人は事故で両親を亡くしてから叔母に引き取られた。しかし関係は良好ではない。 颯人が家に来てから、叔母の家庭は崩壊した。夫は新しい女を作り、姿を消した。一人の娘がいたが、娘は颯人が来てすぐに誘拐事件にあい、行方不明になった。
颯人は両親を失っている上にこの惨状とは、偶然という言葉じゃ到底片付かない。
叔母はもう少し遅くに仕事に出かける。顔を合わせない方がお互いのためだ。
颯人は荷物を椅子の隣に置く。キッチンに入り、食器とコーンフレーク、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
食卓に腰掛け、とってきたものを置く。器にじゃらじゃらとコーンフレークを注ぎ、牛乳も注ぐ。
颯人はそれをぼんやりと口に運ぶ。味わうというより、単純作業のような感じだ。スプーンに適量とり、口に運び、噛んで飲む。それだけ。10分もしないうちに食べ終わった。
そして食器を洗い、片付けた。
颯人はただで住まわせてもらう事を忍びなく思い、掃除や皿洗、洗濯などの家事をする。しかし、料理はしない。朝はコーンフレークを食べ、昼は給食、夜は置いてあるコンビニ弁当を一人で食べる。
ほとんど顔を合わせず、家庭内別居のようなものだ。
颯人は歯磨きを済ませて、学校に向かおうとする。
玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけようとした時、思い出したかのようにバックの中をガサガサと漁る。黒髪のウィッグだ。これは父親が残してくれたものだ。ウィッグを被り、白銀の髪を隠す。これでどこにでもいる少年だ。
「言ってきます」
リビングの方にポツリという。もちろん「いってらっしゃい」なんて言葉は返ってこない。颯人はノロノロと通学を始めた。
学校まではそんなに遠くなく、10分程で着く。
昇降口で靴を履き替える。だがそう簡単にはいかない。
颯人の学校生活は「上履き探し」から始まる。いつも誰かに隠されているのだ。
ため息を吐いて、辺りを散策する。同時刻に来ている生徒には不審な目で見られるしかし、そんな事はあまり気にしていない様子だ。
今日は比較的すぐに見つかった。昇降口のゴミ箱だ。掃除の時以外は誰も見向きもしない。靴を隠すには向いている場所だろう。颯人は靴を拾い上げ、ゴミを払う。
靴に足を入れると、違和感に気づいた。紙が入っているのだ。颯人はその紙を取り出して確認する。
「おめでとうm9(^Д^) 」
汚い字でそう書かれている。ご丁寧にイラストまで添えてある。颯人はそのままビリビリに破いて目の前のゴミ箱に捨てた。こんな様子を誰かが遠くで嘲笑っているのだろう。
教室に入り、席に着く。誰とも挨拶なんて交わさず席に着く。
周りはガヤガヤと駄弁っている。それもチャイムが鳴ると、次第に静かになっていった。このチャイムより後に来た人は遅刻ということになる。
「出席とるぞー」
先生が言う。
「欠席はなしで、遅刻は…」
名簿を確認しながら、そう言いかけた時だった。
ガラガラという轟音が響き渡り、教室の扉が勢いよく開く。
「ギリギリセーーーーフ!!」
叫びながら教室に入ってきた。
「ガッツリアウトだぞ。早く座れ」
「えへへ。すみません」
ぺこりとお辞儀をして、席に向かう。「今日は間に合うと思ったのになー」なんてぶつくさ呟いている。周りの人は笑いを堪えるのに必死だ。
この人は神谷心かみや こころだ。結構頻繁に遅刻している。クラスの人気者で颯人とは縁遠い存在である。
ホームルームが終わり、再び教室が騒がしくなる。
そして1時間目の授業が始まると、また騒がしくなる。
颯人は学校生活も単純作業のようにこなす。授業は当てられたら答えられるようにぼんやりと受け、淡々とノートを取る。
委員会の仕事も係の仕事も、やれと言われた事をして他人に迷惑がかからないようにこなす。それだけ。
それだけで一日が終わる。
放課後、彼はノロノロと家路に着く。
「よぉ。颯人」
今日は無傷では帰れないようだ。
薄ら笑いを浮かべたクラスメイトの男子4人が立ち塞がった。大柄なリーダー格の人間が一人、取り巻きが3人だ。颯人は通り抜けて帰ろうとするが、取り巻きに肩を掴まれる。
無視されたことが癇に触ったのか、リーダー格は不機嫌そうな顔をする。
「連れて行け」
大柄な男が指示を出すと、颯人は取り巻きたちに引っ張られていった。
トイレに着くと、壁に向かって乱暴に放り投げられる。
肩を打ち、颯人は顔を顰めた。
いじめっ子3人が颯人を見下ろす。一人は見張りに行ったようだ。
週に1回程だろうか。不定期である。彼らは小学校の時から、憂さ晴らしに颯人をサンドバッグにする。原因は恐らく大人しく、弱そうだからだろう。
数分ぼーっとしていれば、すぐに終わる。颯人はもう慣れているため、今更抵抗はしない。
大柄な男は薄ら笑いを浮かべながら、ポキポキと腕を鳴らす。
そして、颯人の腹に一撃入れた。
「が…あ゛…」
颯人は声にならない呻き声をあげて、その場にうずくまる。
すかさず取り巻きたちが蹴りを入れる。
トイレに笑い声と鈍い打撃音が響く。
数分経った。いつもはこの辺りで満足して去っていくのだが、今日はしつこい。今朝教師に服装を注意されたことに腹が立ったのだろう。
リアクションの少ない颯人にうんざりしたのか、リーダーは颯人の髪の毛に手を伸ばす。うずくまっている颯人を髪の毛を引っ張って起こそうとしたのだ。大人しく殴られていた颯人だが、初めて手を掴んで抵抗する。
弱々しく、何の抵抗にもならない。すぐに振り解かられる。しかし、リーダー格は意表を突かれたようで、一瞬動きが止まる。
颯人の反抗的な態度に腹を立てたのか、表情が曇る。
そしてまたすぐに半笑いを浮かべる。髪の毛に何か隠していることに気がついたのだろう。
取り巻きに顎で指示を出す。「取り押さえろ」的な意味だろう。颯人は両腕を掴まれ、抵抗ができなくなる。
「お前の髪それ、かつらか?」
「嫌…やめて…!!」
颯人は蚊の鳴くような声で叫ぶ。
「うるせぇ!!」
腹を殴る。颯人は情けない声をあげて脱力し、頭を差し出すような体制になる。
リーダー格の男は髪の毛に手を伸ばすし、さらりとウィッグを外してしまった。
颯人の白銀の髪が露わになる。
笑っていたいじめっ子たちは、唖然とした表情をしている。
トイレが静寂に包まれる。
しかし、リーダー格の男が沈黙を破る。
「俺らがその色、落としてやるよ」
当然ながら親切で言っている訳ではない。「新しいおもちゃを見つけた」そんな様子である。取り巻きに手洗い場の方へ連れていくよう顎で指示を出す。
取り巻きたちは颯人を引きずって手洗い場へ運ぶ。
リーダー格の男がキュルキュルと蛇口を捻る。
そして颯人の頭を鷲掴みにして野菜を洗うように水にさらす。
「…が…あ゛…!!…やめ…て…!!…ゴホッゴホッ…」
息を吸おうとすれば、水が流れ込んでくる。僅かな隙間を探して息を吸うと、むせ返る。このままでは死んでしまう。颯人は情け無く懇願する。
そんな様子を見て再びトイレに笑い声が響く。
秒針がカップ麺を作れるほど回った。
「今日はこんなもんでいいだろ」
いじめっ子たちは颯人を乱暴に放った。
「お前の髪のことは誰にも言わないからよ。これからもよろしくな」
そう言い残して去っていった。
「…」
颯人は場所を忘れてその場にぐったりと倒れ込む。水がポタポタと滴っている。しばらく天井を眺めた後、むくりと上体を起こし、体についたほこりを払った。そして袖で水を拭う。
思いついたようにトボトボと歩いていき、落ちているウィッグを拾い上げる。歪んでしまっているが、まだまだ使える。鏡を見ながらウィッグをつけて、どこにでもいる少年に戻った。
「帰ろう…」
そう呟いてまたノロノロと歩き出した。
校舎を見回す。帰るか部活に行ってるかしていて人はほとんど残っていない。外からは運動部の声が聞こえてる。
ぼんやりと歩いていると、声をかけられた。
「颯人君!何してるの?」
クラス1の人気者、神谷心だ。彼女は弓道部に所属しているが、今日は休みらしい。
普段声を誰からも話しかけられない前提で生きている颯人は体をびくつかせて、恐る恐る振り返った。
足元に視線を向け、何も言わない颯人に対して、笑顔で返答を待っている。しかし、いつまでも口を開かない颯人を見かねて心が口を開いた。
「私はね、遅刻が多いからって、先生と話してたの。」
自虐風にそんな事を言う。しかし、颯人の返事はそっけなかった。そんな事を全く気にする様子はなく、続けた。
「家の方向同じだっけ?一緒に帰る?」
そう言って距離を詰める。
「なんか濡れてるよ?」
心さんは颯人の髪の毛に手を伸ばす。
颯人は心臓が貫かれたように感じた。その姿がいじめっ子に重なったからだ。
颯人はするりと躱し、早口で捲し立てた。
「今日は行きたいところがあるので、ごめんなさい…!!」
軽く会釈をして、足早に立ち去った。
彼女は気を悪くする様子もなく、笑顔で手を振っている。彼女が人気者なのは、誰にでも分け隔てなく接しているというところにあるのではないだろうか。
行きたい場所があると言うのはあながち嘘ではない。
颯人は家と真逆の方向に歩き出した。
10分ほど歩くと、図書館に着いた。
颯人は暴行を受けたとき、いつもここに入り浸る。
真っ先にお気に入りの本のところへ向かう。
今日もちゃんと残っている。神話の本だ。と言ってもそう堅苦しいものではない。世界中のありとあらゆる神を紹介している。小、中学生向けで、イラストもカッコよくなっている。いかにも子供が好きそうな感じだ。人智を超えた圧倒的な力に憧れる。お年頃の子なら誰だってそうだろう。
その本を手に取り、うっとりとした表情でその本を眺める。分厚く、自分の顔よりやや大きいくらいの本を抱えて座席に向かう。
座席に着くと、颯人は決まって同じページを開く。日本神話の一番最初ページに「天照大御神アマテラスオオミカミ」が載っている。一度は聞いたことがある人が多いだろう。日本神話の最高神格とされている女神だ。
颯人は目をキラキラと輝かせてそのページを見る。隅から隅まで見て満足すると、一番最初のページに戻ってよみ始めた。
楽しい時間はあっという間なもので、数時間の時が経った。
図書館には閉館を知らせる音楽が鳴り響いている。
颯人はハッとした。本を元の場所に戻し、家路に着いた。
時計は6時を回り、外は薄暗くなっている。いつもより速いペースで歩みを進めた。
颯人が急いでいるのには訳がある。
この街にはちょっとした噂があるからだ。神隠しの噂だ。叔母の娘、颯人の従兄弟に当たる少女が行方不明にっている話には、続きがある。
その少女は、突如として姿を消した。未だに犯人は見つかっておらず、神隠しと考えている人も一部いる。しかし、あくまでも噂で、誘拐事件という線が強い。
そんな事を考えているが何事もなく家に着き、颯人はほっと胸を撫で下ろす。
鍵を使って家の扉を開く。玄関を見ると、女性物の靴が一足。叔母も仕事から帰っているようだ。颯人は離れた所に靴を脱ぐ。
リビングに入ると、酒の嫌な匂いが漂っている。
朝と同じ場所に缶ビール片手に眠っている。颯人の気配に気がついたのか、目を覚ました。そして颯人をぎらりと睨み、吐き捨てるように言った。
「帰ってきたのかよ…」
酔っていて、呂律が回っていない。机に横たわったまま、続ける。
「どこかで事故にでも遭ってればよかったのに…!!」
頭を抱え、呻き声をあげながら叫ぶ。
「ずっとおかしいと思ってたのよ…。銀色の髪なんて…」
「あなたが生まれてから全部壊れたのよ!」
「姉さんと義兄さんが事故にあったのも!!」
「私の夫も、娘も、帰って来なくなのも!!!!」
「姉さんだってあなたを産んだことを、きっと後悔しているに決まってるわ!!!!!!」
一言発する度に声が大きくなっていく。散々吐き捨てて、息を荒げる。息を整えた後、深く息を吸ってとどめの一言の準備をする。
「この疫病神!!!!!!!!!」
颯人は呆然と立ち尽くしたまま、聞いていた。そして颯人に一つ悪い考えが浮かんだ。
お望み通り居なくなってあげよう。この場から。いや
―いやこの世から。
颯人は家を飛び出した。
もちろん追ってきてくれる人などいない。
颯人は走った。ひたすらに。
数キロ程走り、取り壊し予定の廃ビルに辿り着いた。立ち入り禁止の看板飛び越える。息が上がってることなんて気にせず、廃ビルの階段を駆け上がる。
屋上に辿り着いた。夜風が颯人の頬を拭う。深呼吸をして、端の方へ歩み寄る。
柵を乗り越えて下を見る。正確な高さは不明だが、頭から落ちたらほぼ即死だ。人がほとんどいない。いま飛び降りたら発見されるのは明日の朝になるだろう。
颯人はぼんやりと考える。暴言なんて目が合えばいつも言われていて、もう慣れている。むしろ今まで、衣食住を与えてくれた。恨みなんて一つもない。
いじめだって自分が殴られて、蹴られて彼らの気が晴れるならって耐えていた。
颯人はポケットから鏡を取り出す。
自分の顔を見ながら、白銀の髪に触れる。
「疫病神…か…」
颯人はそっと呟いた。
誰にも迷惑をかけまいと生きていても、無駄なのだ。
「ごめんね…お母さん、お父さん…」
ぼんやりと鏡を眺めていると、鏡に影が映ったのに気がついた。後ろに何かいる。颯人は柵に捕まりながら、そっと振り返る。
そこには、自分の体よりもずっと大きい狼のような獣が鼻息を荒げながら、にじり寄ってきていた。
「あ…あ…」
颯人は固まってしまった。そして今自分が屋上にいるという事を忘れて後退ってしまった。
足を滑らし、颯人は空中に晒された。颯人は鳥になった。ただし空は飛べない。
コマ撮りのように感じてる。高速で思考が回っているからだろう。
アスファルトが近づいてくる。元より飛び降りるのが目的だったのに。不思議だ。
「死にたくない」
颯人は死ぬ直前そんな風に思えた。
しかしアスファルトが頭に接し、意識が途絶えた。
目が覚める事などないかのように思えたが、颯人は固い地面の上で目を覚ました。息が上がっている。
「生き…てる…?」
いや死んだのか。
颯人はすぐに理解した。ここはあの世なのだろうと。しかし想像と違ったようで、あたりをぐるりと見回す。
空は曇天に包まれ、薄暗い。
周りはビルに囲まれている。知らない街だ。
人は自分以外にはおらず、倒壊している建物もあり、荒廃しているようだった。
もしあの世じゃないとしたら。
颯人にそんな考えが浮かんだ。
もし元の世界に帰れたら
―生きたい。
そう思っていた時、聞き覚えのある呻き声がした。
さっきの獣だった。
颯人はここで死ぬわけにはいかないと、走り出した。
獣も追ってくる。このまま走り続けていたたらいずれ追いつかれると考えた。颯人は倉庫のような建物の中に入り、物陰に隠れる。
「はぁ…はぁ…」
息が上がっている。
獣は鼻を地面に擦り付け、颯人を探しているのを確認できた。
颯人は鏡を取り出して、考えた。
「どうしよう…神様…。」
颯人がそう考えた時、鏡が一筋の光を放った。
まずい。これでは居場所を自分で晒しているような物だ。颯人は鏡を覆い隠す。
しかし颯人は思った。「これは使えるかも知れない」と。颯人はこっそりと獣の後ろに移動する。
そして、鏡が放つ光を獣の視界に入るように当て、ヒラヒラと動かした。
案の定、獣はその光の虜になった。獣は光を捕まえようと追い掛ける。颯人は倉庫の外へと誘導した。
そして、深呼吸をして、走り出した。
一世一代の賭けだ。颯人が光を出すのをやめて走り出したため、いつ獣がこちらに気がついて追いかけてくるか分からない。しかしそんな事は考えずにただ走り続けた。出口を探して。当てなんてないけど、もし獣を撒いたなら…。希望が見えたような気がした。
しかし出口なんてどこにもなかった。
颯人の体力もそろそろ限界だ。そんな時だ。運命とはどこまでも颯人を突き放した。
「ガルルルルルルルルル…!!」
また獣が現れた。
颯人は心の中で舌打ちをし、走り出そうとした。が、先ほどまでの無理が祟ったのか、躓いて転んでしまう。
獣が寄ってくる。
ここまでか…
足掻くなんて颯人には似合わなかった。
運命にただ踏み躙られて、死ぬまでの時間が伸びた。
それだけのことだ。
「まだ諦めるには早いぜ」
どこから声がした。
鏡からだ。
光が先ほどまでよりも大きくなっている。
颯人はその光に包まれた。
「ここは…」
僕は辺りを見回す。
一面真っ白の世界。
そこに190cmくらいの大男の姿が見えた。大男がと言っても堅くはなく、すらりとしていてスマートな感じの人だ。顔もイケてるメンズという感じだ。
僕と同じ銀色の髪。髪は長く、束ねてある。
華やかな着物に身を包んでいるが、胸元から筋肉を曝け出していて、ラフな感じだ。
「あなたは…」
僕は問いかけた。なぜか悪い人ではないと思った。
「俺か?」
大男はニヤリと笑った。
「天照大御神」
「―お前の前世だ。」
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