空へ その向こう側へ

黒川亜季

空へ その向こう側へ



 初めて彼女が空を越えたいと言った日のことを、私は憶えている。あれは放課後の屋上だった。

 良妻と賢母の育成を至上目的としていた女学院の空気になじめず、その日は特に何か面白くないことがあって、沈んだ思いを抱えて向かった屋上の先客が彼女だった。

 運動の成績が抜群に良く、性格は明るく、いたずら好きで友人が多い。確かそんな評判の、同級生だった。


 友人と言えるほどは親しくもなく、かといって全く知らないわけでもない。何とも言いがたい空気はあったが、立ち去るのも不自然で、手すりにもたれて夕焼けの空を静かに眺めることにした。

 しばらくはそうやって、二人は無言で空を眺めていたように思う。


 辺りが薄暗くなり、そろそろ帰ろうかと思い始めたちょうどその時、彼女が声をかけてきた。


 ──ねえ、空って、どうやったら越えられるのかな。


 私は彼女が、陸上の選手で高飛びを得意としていたことを思い出した。

 これは、比喩的な何かだろうか。それとも、本当に空を飛ぶ方法を考えていたのか。文学的なものは苦手だった私は、後者の方に答えることにした。


 ──人が翼を持っていない以上、あれに頼るしかないでしょうね。


 空に軌跡を描きながら視界を横切っていく飛行機を指さす。


 ──あれは、空の下を飛んでいるのでしょう? その向こうに行くことは、出来ないのかしら。


 これは、答え方を間違えたか。私は少しだけ後悔して、彼女の表情を伺った。

 涼しげな彼女の表情は、特に気分を害したとか、話が通じていないというわけでは無さそうだった。それで私は、近ごろ頭の中を占めている考えを彼女に伝える気になったのだった。


 ──地表を覆っている大気の層を下から見上げて、私たちはそれを漠然と空と呼んでいるのよ。あなたの言う『空を越える』がそのままの意味なら、人工の機体に乗って、大気の層を突き抜けて、宇宙へ飛び出す、という事になると思うわ。


 私の答えが予想外だったのか、改めて彼女はまじまじと私の顔を見つめてきた。彼女は、10人いれば8人(より適切には5人のうち4人と言うべきだろう)は美人だと言いそうな容姿の持ち主。それに比べて私は、硬い癖毛を三つ編みにし、視力も弱いので度の強い眼鏡をかけているという、一言で言えばさえない女学生だ。

 彼女の視線に気恥ずかしさを感じ、私は思わず目をそらしてしまった。


 ──面白い。空のことをそんな風に言う人、初めてだわ。物知りなのね。


 驚いて、彼女を見返す。そんな返事が来るとは思ってもみなかった。級友たちの誰とも違う反応に、気持ちも少し前のめりになる。


 ──あなたの期待してる答えとは違うと思ったけど、私もちょっとだけ『空って何だろう?』って思った事があってね。それで色々調べたの。だからこれは、どこかの本の受け売り。


 ──それでも、私は知らなかったことよ。ありがとう。人って、空を越えることができるのね。


 ──理論的にはね。未だ誰も、そこへはたどり着いていないわ。


 ──空は、飛べるようになったのに?


 ──そう。あなたが言うように、飛行機は空の下を飛んでいるだけ。空を越えるにはまだ、足りないことが山ほどあるのよ。


 ──いつかは、越えられるようになるのかしら?


 ──わからない。だけど、挑む価値はあると思うわ。




 何度思い返しても、その前後に何があったのか、はっきりとは思い出せない。屋上で彼女と交わした会話は、それだけ鮮烈に私の中に焼き付けられていた。

 その頃の私は、良い家庭を作るために必要な教養には全く興味が持てず、かといって勉学を放り出すこともできず、吐き出せない思いを抱えて鬱々とした日々を送るだけの存在だった。そんな中で唯一といって良いくらいに惹かれたのが、この世界を形作る自然科学の法則の数々だった。

 私はいつしか、生徒からも教師からも『女の子らしくない』と言われながら、数学や物理にのめり込んでいった。シンプルで美しい物理法則や数式や定理は、曖昧で面倒くさい世の中とは違う場所に私を連れて行ってくれる気がしたからかも知れない。


 そんな私だったけれど、彼女とは何故か気が合った。

 屋上で最初に言葉を交わした後、それからも色々な場所で、彼女と私は『空の向こう側』について語り合った。


 ──空を越えて、あなたの言う宇宙に飛び出すことができたら、私たちのいる場所はどんな風に見えるのかしら?


 ──私たちの星は、7割が海で3割が陸地なのよ。だからあなたがもし宇宙に飛び出したとしたら、見えるのも7割方は海ってことになるでしょうね。


 ──夢のない言い方ねえ。雲の切れ間からのぞく懐かしい故郷とか、雪を被った山々とか、心を震わせるものもたくさんあるでしょう?


 ──確かにね。私たち人の姿がどんどん小さくなって、やがて見えなくなって、この星のある形がありのままに見えたのなら、きっと言葉を失うくらい美しいと感じると思うわ。


*


 彼女の興味は、空の青さや夜の色がどこから来るのかとか、空を越える時の衝撃の強さだとか、どちらかというと感覚的なものに向いていたらしい。

 法則性や数理にこだわる私と違うのはすぐに分かったけれど、それでも淑女予備軍の女の子たちの中で、自分の好きなことを好きなだけ語れる相手がいることは本当に救いだった。


 それからもう一つ。

 私たちの様な変わり者にとっての幸運は、担任の教師が「行き遅れの冷血女」などと揶揄されながら、生徒たちの言うことを決して馬鹿にせず、何かを望む生徒には正面から向き合うタイプの教師であったことだった。

 教師は私に、それから彼女に、私たちの国が人類を宇宙に飛ばそうと計画していること、そのための小さな組織を作ったこと、そこに加わるために求められる能力について伝えた。

 私たちは本気でそれを聞いたし、教師も本気で取り得る手段を教えてくれた。彼女と私の覚悟を何回も確かめながら、背中を押してくれたことがどれほど後の支えになっただろう。


 学院を卒業して、私たちの道は分かれた。

 私は物理や数学の知識を必要とし、目覚ましい発展を遂げ始めていた通信技術の世界を選んだ。

 女の行くところではない。父も母も賛成はしなかったが、成人していた兄が後押ししてくれたことと、妹が私のように道を踏み外していなかったことで、一人くらいは好きにさせておこうと考えたのかも知れない。

 何より奨学金を得て、親に頼らずに大学まで進めたのは有り難かった。


 大学時代は文字通り、夢中で勉学に打ち込んだ。良家の子弟たちも集うような伝統ある学舎だったが、私にはやらねばならない事が山積しており、それ以外を楽しむ余裕はひとかけらも無かった。遠く離れてはいたけれど、私には心を奮い立たせる存在がいつもあったから、そういう生活を苦労だと感じたことはない。


 幾年かを経て、私は宇宙局に通信士として滑り込むことに何とか成功していた。


 そして彼女は──。私よりもはるかに厳しい競争の場に自らの身を置き、激しい訓練をくぐり抜けて、宇宙飛行士の候補生として同じ宇宙局に配属になった。

 運動神経は絶望的、視力も弱く身長も低い私では、最初から選ぶことさえなかった道だ。

 学院を卒業して、10年近くの月日が流れていた。




 例えば農業なら、日々の食に直結していることを誰もが理解できる。これを止めろなどという人はいないだろう。

 例えば医療なら、自分の生き死にに直結していることを、皆が日々の生活で実感している。これを減らせなどと言う人も、そういないだろう。


 翻って、宇宙だ。

 夢はある。最新鋭の技術が何かに応用できる事は何となく想像もつく。けれども人が宇宙へ行くことと、日々の生活を豊かにすることを結びつけるのはとても難しい。務めている私ですら、そうだったくらいだ。

 結果として、私が所属することになった宇宙局は、善良な市民や市民の声を背景にした為政者たちに振り回されることから逃れられなかった。


 何かがあるたびに、人や予算が削られる。

 科学者、技術者、そして宇宙飛行士の候補生。国中から優秀な頭脳を集めて始まった宇宙局だったが、優秀な人材には活躍の場所がいくらでもある。

 ある時は理不尽に、ある時は仕方の無い理由で宇宙局がやり玉に挙がるたび、波にさらわれる様に彼らは宇宙局を離れていった。


 抱いていた大きな夢も希望も、状況が悪くなるにつれて少しずつ削られていく。能力のある人ほど、期待を裏切られた失望が大きいのかも知れない。

 さして能力が高くない私が残り続けたのは、単に他に行き場所が無いと思っていたせいだった。


 そして、ある年。世界中を巻き込むような大きな戦争が始まった。


*


 戦争は、一人一人の小さな生活をなぎ倒す様に、社会の全てを変えてしまう。科学者や技術者の中には、別の研究を命じられて宇宙局を離れる者がいた。

 そして飛行士は……。

 陸や海だけでなく空にまで戦場が広がった時代、大きな戦争は優秀な操縦士をいくらでも必要としていた。多くの候補生たちが操縦桿を戦闘機のそれに握り替え、空に飛び立っては戦場に散っていった。

 彼女は、候補生の中で唯一の女だった彼女は、「戦場には女を出すべきでない」という前時代的な理由で戦線から外され、何人かの同僚と宇宙局に居残りになっていた。


 幸いと言うべきか、私たちの住む国は戦場にはならなかった。けれども若い兵士たちが隊列を組んで故郷を離れ、棺桶に入って帰ってくる日々が重なれば重なるほど、人々の心は暗く沈んでいった。


 為政者の近くにいた誰かが、民心を鼓舞する方策として耳打ちしたのかも知れない。宇宙局が細々と開発を続けていることを、別の誰かが思い出したのかも知れない。


 『何処よりも早く、人類を宇宙に飛ばす』

 その命令は突然で、絶対だった。


 宇宙局に関わる誰もが不可能だと抵抗したが、聞き入れられることはなかった。無理に無理を重ね、それでも宇宙船は形になっていく。

 最初に宇宙へと飛び出す栄誉は、彼女には与えられなかった。厭戦気分が社会に広がりつつある中、国中が注目する飛行士には、雄々しさや見かけの逞しさが必要だったからだ。

 残っていた候補生の中から3人が選ばれ、為政者の熱い激励を受けて宇宙船へと乗り込む。彼女がそれをどんな風に見ていたのか、私は知らない。管制室に呼ばれることさえもなかった。


 けれども、中継画像を通して、ラジオを通して、人々が固唾をのんで見守る中で打ち上げられた有人宇宙船は、大気の層を越えることはできなかった。人々の心を高揚させるための試みは、宇宙船が予定の航路を外れ、近くの町に墜落するという最悪の結末で幕を閉じた。


*


 もう二度と、この国から宇宙船を飛ばす事はできないだろう。


 いずれは飛ばせるかも知れない。だがそれは、私たちの子や孫の代になってからだ。


*


 そうしてまた、宇宙局から人が去った。

 彼女や私はまるで暴風に弄ばれる木の葉の様だった。運命から見放され、次には辛うじて繋ぎ止められる。そんなことを、何度くり返したことだろう。

 彼女は黙々と、あても無い訓練に明け暮れ、私は飛ぶあても無い宇宙船との交信の準備を続けた。


 それから少しだけ、時間が過ぎる。戦争は終わった。




 喜びと悲しみは交互にやってくる……これは誰の言葉だっただろう?

 何度かの交代の後、私たちの国を導くことになった為政者は若く活力に満ちた男で、戦争中に果たせなかった夢を思い出したらしい。


 失われた命は──彼は人々に語りかけた──、私たちがあきらめることを望んではいない。今わたしたちに必要なのは、再び挑戦する勇気ではないか。


 ほとんど尽きかけていた宇宙局の灯が、再びともる日がやってきた。自分たちの国を覆っていた哀しみを、皆が何かの形で昇華させたかったのかも知れない。

 才能や夢のある者たちが再び呼び集められ、今度は慎重に、しかし着実に、人を宇宙へと飛ばす準備が進められた。



 4人目の飛行士に選ばれたのは、彼女だった。



 特別な力が働いたわけではない。

 理由は単純で、最初の候補生の中で宇宙局に残っているのが彼女だけだったという話だ。他の候補生は、この国が再び立ち上がってから宇宙局の扉を叩いた者たちだった。


 今度は彼女一人が、宇宙へと飛び立つことになる。


 彼女と地上を結ぶ役目は、私に回ってきた。優秀な通信士たちが宇宙局を離れる中、他の道を選ぶこともできず、将来のあてもなしに静かに身を潜めていた私に。




 打ち上げを明日に控えたその日、皆が忙しく動き回る中でぽっかりと空いた休憩時間に、彼女から屋上に誘われた。

 同じ宇宙局に属しているとは思えないほど、普段の彼女と私の距離は遠い。こうして話ができるのも、本当に久しぶりのことだった。


 屋上から見える夕焼けは、いつも以上に美しく見えた。私も少しは感傷的になっていたのだろう。


 彼女を宇宙へと運ぶ細長い機体は、全ての準備を終え、今は静かに夕陽に照らされている。空を行く飛行機の軌跡の他には雲一つなく、明日の打ち上げも良い状態で迎えられそうだ。


 しばらくは無言のまま、私たちは空や機体を眺めていた。それからおもむろに、彼女が口を開いた。


 ──私の声、ちゃんと拾ってよね。


 ──宇宙空間との交信は、この計画の最重要事項の一つよ。通信の設定には最善を尽くしたし、バックアップも三重にかけてある。安心して飛んでちょうだい。最初の交信はみんな聞いてるんだからね、打ち合わせ通りにお願いよ。


 ──相変わらず、夢のない言い方で安心するわ。ねえ、あの小さな窓から、ここを見ることはできるかしら?


 ──計算上だけど、あなたの乗った船は1時間半くらいで地球を一周すると思う。時計をよく見ていて。天気が良ければ、きっとわかるはずよ。


 ──あなたのそういう所、私、嫌いじゃない。


 そう言った彼女の手が私の腕をつかんだ次の瞬間、引き寄せられた体は意外なほど強い力で抱きしめられていた。

 思わず声を上げようとした私の口を、彼女の唇がふさぐ。


 静かで、長い口づけ。ほのかに暖かく、柔らかいその感触。


 遠い遠い昔、学院の屋上で、裏庭で、お互いの部屋で交わした口づけの感覚がまるで失われていなかったことに、私は少し驚いていた。

 彼女が私を抱きしめ、私が彼女を抱きしめる。夕焼けと夜の帳が、私たちを包む。


*


 ある人は言った。

 自分の幸せを捨てて、人類の夢に賭けた彼女たちを尊敬すると。


 別のある人は言った。

 満ち足りた結婚生活や温かい家族を棒に振ってまで、彼女たちがやるべきことなのかね。


 私は心の中で思う。

 何一つ、犠牲になんかしていない。私は自分の生きたいように生きてきたし、本当に大切な人とは今、同じ夢を追いかけている。


 明日、陽が昇れば、彼女は一番遠い場所へ行く。

 一度は運命に見放され、今度は同じ運命に引き寄せられた彼女と私は、静かにその時を待つ。




 管制室は、世紀の瞬間を前にした高揚感で満たされている。

 関係する全ての人たちが、最善を尽くし、あらゆる注意を払ってここまで来た。やるべきことは分かっている。後はそれを、やるべきタイミングで行うだけ。


 画面の向こうには、彼女を乗せた機体が静かに時を待っている。

 秒読みが始まる。


 始動。着火。そして発射。

 良好、順調……、それから成功へ。


 小さな管制室に、人々の歓声が響き渡った。


 私の本当の仕事は、ここからだ。ヘッドフォンにきつく耳を押し当て、目を閉じる。今、彼女が見ている景色を、その感覚を、少しでも自分に重ねたいと願いながら。


 体が操縦席に押しつけられる、感触。

 喉の渇き。

 そして、ほんのわずかの目まい。


 空へ。あの頃に二人で見た空へ。

 空を越えたその向こう。夢にまで見た、漆黒の闇が広がる星たちの海へ。

 彼女の空の旅はこうして始まり、私はそれを地上から追いかけてゆく。



*



「……聞こえる? ねえ、私、空の向こう側に来たみたい。あなたが言ったとおりだわ。信じられない光景よ」


「ええっ、嘘っ……! こ、こちら管制室、受信状態は良好です。そちらの通信状態はどうですか」


「あなたの声、宇宙からだとこんな風に聞こえるのね。ええ、良好よ。聞こえてるわ……」



*


 見上げる空の、向こう側とこちら側。

 目まぐるしく変わる信号を追いかけ、指先を機器の上で踊らせながら、予定外の私信に跳ねる鼓動を抑えながら、私は誰よりも遠い場所にいる彼女の、次の言葉を待つ──。


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