クリオの国奇譚

すみはるたまき

第1章 不器用な少女

 1


 みっこは激怒した。担任の湯河原先生の横暴な態度に、ハラワタが煮えくり返るかのようだった。これは彼女の11年間の人生の中でも最大の怒りなのではないか……とも思った。

 ハラワタとは一体何なのか、みっこはいまいち良くわからない。でも、とても頭に来た時はお腹がモヤモヤするような気がすることがある。きっとそうしたモヤモヤの正体が、ハラワタというものに違いない。

 みっこは不服さを体中から表しながら、横目で自分を取り囲む状況を確認した。クラスメイトのみんなは、みっこが先生に謝るのを期待している顔だ。あからさまに迷惑そうな顔をしているものもいた。

 ――あれ?でも頭に来たというのにお腹にあるものが煮えくり返るというのもおかしな気がする。達郎などは良く「切れる」という言葉を使うことがあるが、この場合切れるのは頭なのかお腹なのか。

 と、そのようなことを考えているうちにみっこの人生最大の怒りは大分鎮まってしまっていた。

 その場にふさわしい感情表現というものが世の中にはあるはずなのだが、それを素直に表に出すのがみっこは苦手だ。感情の起伏は激しい方なのだけれども、あれこれ考えている内にその感情がばらけてしまうのである。そうなってしまうと、一時でも怒りに身をまかせようとした自分がなんだかいけないことをしてしまったような……そんな気にさえなってしまうのだ。

「おい、みっこ!ちゃんと聞いていたのか。早く達郎に謝りなさい」

 反省の意志が見られないみっこに苛立ったのか、担任の湯河原先生が怒り出す。

 今年30歳になったことを少し気にしている、湯河原先生。独身で彼女は無し。見た目はぽっちゃり、趣味は錠前いじりという湯河原先生。

みっこはこの素朴な先生のことは嫌いじゃない。

(……けれど、どうして私が謝らなくちゃならないわけ?休み時間に私が読んでる本を取り上げたのは達郎なのに!)

 みっこはそれが気に入らない。達郎が何度言っても返してくれないから、我慢しきれずにほっぺを少し叩いた。それは確かに悪かったのだろうと思ってはいる。でも。そもそもの原因は達郎ではないか。

(私だけが謝るのは、なんというか、その、フェアじゃあない)

 みっこはそう考えてしまうのである。

「みっこ!聞いているのか?」

 みっこは気を取り直して、湯河原先生に自分の正しさを伝えようと考えた。そして……5秒でその考えを放棄した。何をどう伝えたらよいのか、わからなかったのである。

 何だか何を言っても理解して貰えないような。口を開いた瞬間声が裏返りそうな。泣き出してしまいそうな。

 そんな予感がみっこの言葉を奪ってしまった。出来ることと言えば、ただただ下をうつむくことくらい。

 クラスの友達は最初こそ「これは一大事」と言うような顔をしていたものの、どんどんうつむき小さくなっていくみっこの様子を見て、次第にくすくす笑いが起こるようになっていった。

 なんたる屈辱!みっこの怒りは再燃した。しかし、今度の対象は湯河原先生ではない。このクラスという集団。更に言うならば、この日本という社会そのものに対し、再びみっこは激怒した。

 そして、みっこは。

 その怒りを堪えきれず、教室を飛び出していたのであった。

 どこか向かう先があった訳ではなかった。ともかく感情のおもむくままに走り続けた。校舎の裏の雑木林までたどり着いて、初めてみっこは後ろを振り返る。……誰も追ってきてなどいない。

 逃げきった?いや、そもそも追ってきてすらいなかったんじゃないかしら。

 ふとそんな想像をしてみると、何だか自分がひどく惨めなような気がして、みっこは怒るのではなく、ぽろぽろと泣いた。

「このあと、どうしよう。」

 誰へともなく呟いてふと顔を上げる。

 ブナの枝葉からこぼれる陽光は、明るくもほのかな哀愁をはらんでいるように見える。

 今日から10月。あと数週間もしないうちに空気は凛と澄み渡り、秋の気配が立ちこめてくることだろう。

 ——いっそこのままここに居続けてみようか。いつか季節が変わり、落葉と粉雪がこの身を包み込むまで。

 その悲観的な想像はなかなかに美しい。しばしの間みっこはその空想に酔った。

 そんな時である。みっこの鼻を、懐かしい匂いがくすぐった。

 ――これは、おばあちゃんの家でよく嗅いだ匂いだ。たしか花の名は、ライラック。

 みっこはあまり勉強が出来るわけではないのだが、この花は印象的だったので良く覚えている。ハート型の葉っぱも密集して咲く花もとても可愛らしく目に映ったものだ。

「あれ、でもこの花は……」

 ライラックの盛りは4月から5月。温室でもない限り、この季節に咲くはずはない花だ。そして、みっこの通うこの小学校には当然の如く温室は無い。

 みっこはすっくと立ち上がる。暖かな香りにみっこの足は自然と導かれた。

 校舎の裏にある雑木林は、お世辞にも広いとは言い難い。弧を描いた形をしているため、入り口から出口は見えないものの、それでも所詮校舎裏。みっこの足でも横断に5分はかからない。だが。

(おかしい。結構歩いた気がするけれど、まだ出口が見えない……)

 みっこは視界に広がる緑の光と、強まっていく香りに、何故か胸の鼓動が高まるのを感じた。何だろう。何かが始まるような。そんな予感めいた何か。

「みっこ!!探したぞ。」

 ……その予感めいた何かは、唐突にかけられた怒声とともにかき消えた。

 どこかに隠れてしまったその何かを何とか掴みとろうと、みっこは周囲をぐるりと見回した。もはや、何も感じられない。その眼に映るのはただいつも通りの雑木林と、いつも通りにかんかんに怒っている湯河原先生の顔だった。

 みっこは言いようのない悲しさに包まれた。何だかとても大切なものを壊してしまったような。幼い頃に大好きだったぬいぐるみを、間違って捨ててしまった時のような。そんな感情。

 気付かぬ内に、みっこの頬を涙が伝う。その様子をみた湯河原先生は表情を緩めた。

「そうか、みっこ。お前も反省していたんだな」

 どうやら湯河原先生はその寛大なる御心によって、大いなる勘違いをなさったようであった。……みっこはあえて訂正はしないでおこうと思った。

「大丈夫。達郎も許してくれるさ。一緒に戻って、皆の前でちゃんと謝るんだよ」

 あえて訂正はすまい。でも、否定はする。みっこは首を横に振ると、回れ右して駆けだした。達郎に謝るなんて、今のみっこにとっては耐えがたい拷問だ。

 後ろから湯河原先生の声がする。もう遅い。みっこは走り出してしまった。今さら止まって「ごめんなさい」は言えない。

 あとで怒られるんだろうなあとか、ランドセルおいたままだったなあとか。後悔するのだろうとはわかっていたが、今は人の来ないところへ走ることだけ考えたい。

 10月1日。午後1時50分。こうしてみっこは、人生で初めて学校を自主的に早退したのであった。


 2


 みっこの通う小学校は小高い山の上にある。大きな山では無いけれど、広葉樹が豊かに生い茂り子供の遊び場としては申し分ない。

 そんな森の中にある、秘密の「隠れ家」へと。学校を飛び出したみっこは向かっていた。

 アスファルトの道を離れ、道路脇の柵を乗り越える。木々の間を縫うように、先へ先へ。最初の分かれ道を右。続いて左。これを三回繰り返し、最後は強引に前へ突っ切る。突如視界が開け、一本のにれの木が現れた。

 木は枝葉を手のひらのように大きく広げ、これから来る秋と冬に備えここぞとばかりに日光をすくい集めているように見える。その手に包まれるように、ダンボールとトタン、ビニール等で作られた小さな小屋が備え付けられていた。みっこ特製の、ツリーハウスである。

 人が一人寝ころんだらほぼ定員。そんなささやかな秘密基地が、みっこの安息の場であった。

 手慣れた様子で木を駆け上り、ツリーハウスに滑り込む。室内にはお気に入りの本と瓶に詰められたアメ玉。

 みっこは嫌なことがあった時にはここで本を読みながらアメを舐めることにしている。早速瓶からオレンジ色のアメを選び口に放り込み、本をめくった。

 1つめのアメ玉をなめ終わる頃。みっこは言い訳を探していた。そもそも悪いのは私だけじゃあない。達郎だって、湯河原先生にだって落ち度はあるのだ。

 続いて、2つめのアメ玉を舐め終わる頃。みっこは後悔し始めていた。このことは当然お父さんやお母さんにも伝えられるに違いない。そうすれば真面目なお母さんは顔を真っ赤にして怒ることだろう。また、明日学校にはどんな顔をして行けばいいのだろうか。きっと「悪いことなんてしていない!」と、威風堂々廊下を闊歩すれば良いのかもしれないけれど……そんなふてぶてしい真似、みっこは苦手だ。

 そして、3つめのアメ玉を舐め終わる頃。みっこはまた泣いていた。

 なんでこんな目にあわなくてはならないのか。気分が変わると思って来た秘密基地なのに、結局みっこの気持ちはどんよりとくぐもったままだ。これで天気が大雨ならばまだ様になるのだが、嫌みなくらい底抜けに青い空もなんだかみっこをあざ笑っているように思えた。

「せめておばあちゃんがいたらな」

 昨年亡くなったみっこの祖母はみっこにとって一番の味方であった。いや、当然お母さんもお父さんも味方なのだけれど。あの二人は、妙な言い方をするなら「普通の人」なのである。みっこが頑なにこだわる部分がなんなのか、わからない。

 祖母は違った。みっこが何故そういう行動をとったのか、すべてお見通しなのである。

「みっこはそういうぶきっちょなところ、私に似ちゃったのよねえ」と、笑う顔が忘れられない。

 祖母は良家の出身ながら家を飛び出し祖父と駆け落ちするなど肝の据わった人間であったらしい。物事に動じず全てを笑顔で包み込む様子は、みっこにとって憧れの人物であった。まあ幼い頃から登山やハイキングに連れまわされ、足に豆を沢山作らされた記憶は正直苦いのだが、今にして思えば幸せな記憶でもある。

 ――おばあちゃんに会いたい。いや、それは結局のところ現状を逃げたいだけなのかもしれないけれど……。

 そんなことを考えていた時。みっこの鼻孔をくすぐる微かな香り。――ライラック。

 みっこは周囲に漂う香りをかき消してしまわぬよう、ゆっくりとツリーハウスを出た。香りはどうも森の奥から流れてきているようだ。

 涙でもみくちゃになった顔をごしごしと手でぬぐい、みっこは森へと進む。見知ったはずの光景が、なんだか知らない世界のような色彩を放っていた。

 しばらく進む内に、みっこの周囲を何かがふっと横切った。綺麗な黒い羽と、凛とした存在感。――夏の風物詩、黒揚羽蝶。

 蝶はみっこの眼前をしばし漂った後、ライラックの香りに誘われるように森の奥へと飛んでいく。季節外れの花と蝶を追い、みっこは歩調を早めた。

「あっ!」

 森の小道を抜け、目に飛び込んできた光景にみっこは思わず声をもらした。そこにはいつか絵本で見たかのような、立派な街が広がっていたのである。

 アスファルトとは違い、どこか暖かな石畳。レンガ作りの家並。街路樹の糸杉は怪しい存在感を放っている。また、街全体が傾斜地にあるのか、そこかしこに坂道や階段が点在していた。

 みっこは異国風な街の中を蝶を追いかけひた走る。

 店らしきものも沢山あり看板が並んでいるが、そのいずれもがみっこの見たことが無い言語で書かれている。そしてそれ以上に不思議なのは、それなりの広さを持った街にも関わらず、みっこ以外に人影が見あたら無いことだ。生活感は漂っているのである。だが、人っこ一人いない。

 明らかに普通の街では無い。だが、そのことが今はみっこを興奮させた。

「ねえ、どこに向かっているの?どこに案内してくれるの?」

 思わず蝶に話しかける。蝶は返事をするかのようにみっこの回りを旋回した。

「このまま付いてこいってことなのね。」

 みっこは一人ごちて、先を急ぐ。予感が、あった。今の陰鬱とした状況を一変させてくれる何かが、この蝶の案内の先にある――と。それは確信めいた予感であった。

 やがて、みっこは街の中心と思われる広場へとたどり着いた。

 広場の中央には大理石の女性像がしつらえられた大きな泉があり、さながら映画のセットのようだ。女性像は泉の中央で両手を前方へ掲げ、何かを訴えるような姿勢で静止している。その優し気な顔はどこか懐かしい面影をたたえているように感じた。誰だろう?誰かに似ているような。

 いけない。今大切なのはライラックの香りと蝶の行方である。みっこが意識を集中すると、どうもライラックの香りはその泉から漂ってくるようだった。

 泉の表面は波一つなく、まるで鏡のようである。

「あっ」

 その鏡に向かって、先ほどまでみっこを導いていた蝶がスッと飛び込んだ。水面は全く揺らがない。波紋の一つも残さず、まるで吸い込まれるかのように、蝶はみっこの視界から姿を消した。

 みっこは思わず泉に駆け寄り、蝶の飛び込んだ水面をのぞき込む。そして、目を大きく見開いた。

 そこには、見たことのない異国の風景が写り込んでいた。砂嵐の吹き荒れる砂漠に淑とたたずむ水晶の塔。エメラルド色の海にかかる虹の橋と、それをわたる山高帽の男。どこまでも続く牧草地帯に直立し、悠然と時を刻む巨大な大時計。いずれも、みっこが一度も見たことが無い光景だった。

 もっとよく見てみたい。みっこはこれ以上無理という所まで顔を近付ける。

「きゃっ!」

 体を乗り出しすぎたのか。みっこの体はバランスを崩し、泉の中へと頭から突っ込んだ。

 手で体を支えなくては!……そう思って必死に腕をのばすが、みっこの腕はただただ水をこぐばかり。結局、みっこは体ごと泉に飛び込む形となった。

思ったよりも水深が深い。もがくほどに体はクルクルと回り、どちらが水面なのか良くわからなくなってきた。

 みっこは(あまり得意ではないのだけれど)一生懸命その目を開き、明るくなっている水面へと水をかく。次第に視界が明るくなる。あとわずかで水面だ。

水の中で感じるはずは無いのだけれど。……何故だかライラックの香りを、強く感じた。

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