第2章

第6話 開幕戦

 教室の前まで行くと、身体が震えだした。


 今にも引き返して、この場所から遠ざかりたかった。自室で、一人で引きこもりたかった。

 前回学校に来たのが五日前。そのときは今ほど緊張していなかった。ただ憂鬱で、一日を早く終わらせることに集中していた。それは辛いものだったけれど、ある意味仕事だと思えば楽だった。


 でも今は、違う。

 僕はこれまで否定していたものと、向き合わなくてはいけない。今まで無視していたことを、聞かなくてはいけない。それは仕事ではない。ただ人間として、ここにいなければいけなかった。


 震える手で、引き戸に触れる。

 そして、僕は開けた。


 みんな、とまではいわないけれど、クラスメイトの三分の二が僕を見ていた。僕は小さく会釈をした。誰も反応はしなかった。 

 そのまま、前回と同じように、誰とも話さずに学校は終わった。それは仕事だったときよりも、はるかに辛く感じた。


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 放課後。

 志穂の教室を訪れると、後ろの席で、一人ぽつんと彼女が座っていた。僕はその隣の椅子に、腰を下ろす。


「どうだった? 久しぶりの学校は」

「無理だよ、もう」

「うるさいな、一日行っただけじゃん」

「人はそう簡単に変われないよ」

「君は変わったじゃん」

「悪い方にね」


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 僕はキーボードから手を離し、力を抜いて天井を見る。そして大きく息を吐いた。

 身体が重かった。

 今すぐに眠りこみたい気分だった。たぶんきっと、慣れないことをしたせいだろう。


 パソコンを見ると、僕と彼女の会話が登場人物の台詞として書いてある。上にスクロールして、昨日の会話を見る。そこにはこう、書いてある。


『高校生活をやり直す』


 そして彼女がメモを取らせた内容が、次の行にあった。


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 僕、私たちは高校生活をやり直します。

 条件は簡単、普通の高校生活を送ること。

 友だちを作って、彼氏彼女をゲットし、おいしいものを食べること。

 そして幸福になること。

 未来の自分から見て、後悔しないような日々を過ごすこと。


 以上!


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 僕はうんざりする。

 思わずため息が漏れる。


 どうやったって、今から変われる気がしなかった。三年の一学期。ほとんど人間関係は固定されている。そこに加わる度胸も技量もないし、大体普通に会話ができるかさえ怪しかった。


『そう簡単には変われないってことは、頑張って頑張りまくったら変えられるってことでしょ?』


 最新の行に戻ると、志穂の言葉があった。

 死んで、幽霊になった、志穂の言葉が。


 だから無理だって、と思う反面、志穂が言うならそうなのかもしれないという自分もいた。彼女は生前、的を得るような、世の中の真理のつくような言葉を、何気なく言っていた。


 だから、僕はそれに賭けようと思った。


『なあ、志穂』

『ん?』

『僕はどうすれば志穂みたいになれる?』


 中学のときのことを思い出す。


 僕たちは中学二年のときに同じクラスで、志穂はクラスのほぼ全員と友だちだった。それは単に友だちを増やすため、というわけではなく、クラスメイトが自然に志穂と仲良くなったのだ。ある意味才能みたいなものだと思った。八方美人ではなく、人に平等に優しくなれる。そんな人は僕の人生の中で、志穂だけだった。


 だから。

 聞こうと思った。

 僕も志穂のようになれたら、と。


『私にはなれないよ』


 無理だった。


『智也くんは智也くんのまま、変わればいいんだよ』

『でも変われないよ。そんな気がするんだ』

『そういうときはね』


 志穂はそこで言葉を区切った。 


『誰かのために、変わろうと思えばいいんだよ』

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