「……ありがとう、伯父様」

「本家に戻ったら、定例本会で四家会議での決定事項を報告する。おまえは“当主代理”らしく、当主代行を務めた私を労わらなければならないよ。分かっているね?」

「分かってる。でも、いくら先代当主の娘だからって、当主でもない私が上座で伯父様に偉そうにしなきゃならないなんて……」


 どうせまた幹部衆や長老衆から嫌味や陰口を叩かれるに決まっている。

 歴代の水無瀬当主が交わしてきた龍神との契りどころか、龍神との目通りすら叶う兆しのない陽雨が、確かな実績を持つ月臣を差し置いて“当主代理”を名乗ることが、そもそも彼らにとっては気に入らないのだから。


「陽雨」

「……分かってる。ごめんなさい。水無瀬の跡継ぎとして相応しくない発言だった」

「陽雨はよく頑張っているよ。……私が不在にしている間、また誰かに何かを言われた?」

「…………言いたくない」

「そうか」


 うつむいた陽雨の頭を撫でていく伯父には、陽雨のちっぽけな虚勢など見通されているのだろう。


「老人連中は頭が固い。私からも言っておくから」


 月臣はいつもそう言ってくれるけれど、物事の判断がつくようになってからは陽雨はその優しい言葉に首を振るようになっていた。

 月臣が陽雨を庇えば庇うほど、好転からは程遠い方向に事態が進むことを、陽雨の十八年間はとっくに証明していた。


「ううん。気持ちだけ受け取っておく。ありがとう、伯父様」

「そうかい?」


 少し顔を曇らせる月臣にどこか申し訳ないような気分になって、陽雨はなるべく明るい声で話題を切り替えた。


「今日の務めは伯父様もご一緒なの? 伯父様が呼ばれるような案件なら、私が行ってもどうしようもなさそうな気がするけど」

「帰った報告だけでもと思って本家に寄ったら、ちょうど朔臣が陽雨を迎えに行くところだというから、たまには陽雨の仕事ぶりを見てみようかと思ってね」


 月臣はただの付き添いということだ。

 目付け役の朔臣とは違う緊張感に背が伸びる。

 月臣は当主の務めを陽雨に教え込んだ指南役でもあるので、陽雨にとっては不意打ちのテストのようなものだった。


「陽雨の術を見るのはいつぶりかな。私が満足に時間を取れなくなってから、ろくに指南役も探してやれずにすまなかったね」

「私が務めに出るようになるまではついていてくださったし、朔臣をつけてくださっただけで十分」

「本家に寄ったときに退魔結界を軽く見てきたけれど、この一年で結界術の腕を一段と上げたようだった」

「退魔結界の維持は、当主代理として一番大切な仕事だもん。伯父様が初めにつきっきりで教えてくださったおかげ」

「陽雨が努力した成果だろう。どれほど上達したか、今日は楽しみにしているよ」

「もう。プレッシャーをかけないで」


 はははと笑う月臣にむくれてみせてから、陽雨は運転席で黙りこくっている朔臣へと視線を巡らせた。


「朔臣、今日の案件は何? 予定にない務めを無理やり捻じ込んだっていうことは、緊急なんでしょ?」

「……これを」


 ハンドルを操りながらもう一方の手で寄越された書類を受け取って、さっと目を通す。読み進めるうちに思わず眉を寄せていた。


「何これ。他所とブッキングしたの? それとも分家が失敗した任務の後始末?」

「後始末のほうだ。術師三名が任務中に行方知れずになったと朝一で報告が上がってきた」


 朝からろくでもないものを持ってきたものだ。

 陽雨が一限の間も学校にいられなかったのはこの報告書のせいだったらしい。

 とはいえ、分家の後始末は本家の仕事。当主代理としては捨て置くわけにはいかないだろう。

 陽雨はもう一度分家からの報告書に視線を落とした。


「分家が請けた元々の任務の詳細は?」

「書いてある通りだ」

「廃校を取り壊そうとしたら、工事業者が事故に遭ったり突然足場が崩れたり、人の声や足音に追いかけられたりすることが何度も続いた、ってことしか書いてない。自分のところの術師が行方不明になってから調査したはずでしょ? その調査報告はないの」

「ない。そもそも初めはただの厄災払いの祈祷の依頼だった。戻ってこない術師の捜索にさらに遣わしたふたりからの連絡が途絶えたのが今朝だったそうだ」

「……ミイラ取りがミイラになったわけね。だいたい厄災払いをどうして黄昏時にするのよ。素人だってやらないへまでしょ」

「初めの術師は先月高校を卒業したばかりで初任務だった」


 それが何だという気持ちと、それなら仕方がないかと思う気持ちが同居する。

 水無瀬の当主代理としての経験を早くから積ませておくべきという名目で陽雨が務めに出されるようになったのは七歳を過ぎたばかりのころだった。

 一方で、普通術師の家では子どもが満十八歳に達したら見習いを卒業させ、一人前の術師として任務に送り出すことも、知識として知っている。

 陽雨より一歳年上のはずのその術師は、術師としての経験は七歳のころの陽雨並みのものなのだ。それなら多少の手落ちは大目に見るべきかもしれない。


「……おまえとの縁談が上がっていた相手だった」


 ――――は? と声が出た。


 陽雨は呆然と運転席を見つめた。

 今この男は何と言った?

 陽雨との――縁談?


「……私の婚約者はあんただったはずでしょ、朔臣」


 それは、幹部第一席の筆頭分家である霧生家が陽雨の唯一にして最大の後見であると示すとともに、曾祖父の代で別れた月臣の血筋に未来の水無瀬の当主の座を穏当に受け渡すための方策でもあったはずだ。

 陽雨が先代当主のただひとりの娘というだけでは、陽雨やその直系に当主の座が受け継がれていくことを、水無瀬は承知しない。

 しかしながら、現状では一旦陽雨を経由しなければ当主の座を分家に受け渡すことができない事情もまた、水無瀬には存在しているのだ。


 ――龍神が住む水底を映すという、五色に光る龍の宝珠。


 水無瀬に伝わる神宝であり、龍神の依代ともされるそれは、水無瀬の当主就任における条件のひとつでもある。

 龍の宝珠を手にすることは水無瀬を守護する龍神に資格を認められた証であり、当主候補となる者以外が宝珠に触れることはできない。

 そして、龍の宝珠に触れられる者は、現在の水無瀬には陽雨しか存在しない。


 陽雨は制服の陰でこぶしを握りしめた。

 龍神の依代を継承することは水無瀬を継ぐ者の責務だ。

 陽雨が生きているうちは、新たに当主候補が生まれてこない限り、あの宝珠が他の人間を水無瀬の当主として受け入れることはない。

 唯一宝珠に触れられる陽雨が、霧生家から婿を迎えて子を為すことは、生まれたときから陽雨に課せられた義務だった。


「近江老と一部の幹部連中が進めようとしていた」


 それを知っていて、朔臣は黙認してきたということか。

 これまで陽雨には何も知らされていなかったのはそういうことだ。

 ……この男は、そうまでして陽雨との婚約を破談にしたいのだ。

 陽雨は改めて、十八年来の婚約者からの嫌厭を突きつけられた気分だった。


「朔臣。そんな話は私も承知していない。おおかた近江老が私の不在の間に話をまとめようとしたんだろうが、どの道おまえと陽雨との婚約は私の承諾なしには揺るがないよ」


 隣で月臣が見かねたようにため息混じりに言った。

 肩を強張らせてうつむく陽雨にちらりと視線を向ける。

 その気遣わしげな視線には気がついていたけれど、陽雨は声が震えないように強がるので精一杯だった。


「……私は、怪異の現場に逢魔が時にのこのこ出向いていくような初歩的なミスをする術師なんて、死んでも嫌だから」


 嫌われているのは分かっていたつもりだった。

 それでも、陽雨の補佐という立場を下りたり蔑ろにしたりする素振りはなかったから、朔臣も陽雨との婚約は割り切っているのだろうと思っていた。

 大きな間違いだったのだろうか。

 お飾りの当主代理たる陽雨の代わりに水無瀬の一切を取り仕切る権利を得られるというメリットがあってなお、陽雨と夫婦になることは、朔臣にとっては耐えがたい苦行だったのだろうか。


 運転中だということもあってか、朔臣はミラー越しにすら陽雨のほうを見ようとしない。

 仮に目を合わせても、すぐ逸らされるか、顔を顰められるか、冷ややかに睨まれるかだと相場は決まっている。

 もう何年もそうだ。


 ……そうではないときも、確かにあったのに。いつからこうなってしまったのだろう。


 朔臣の温度のない視線を思い出して、陽雨は零れそうになるため息をどうにか呑み込んだ。

 流れる車窓の中には、春という季節に似合わない暗雲が、遠くの蒼穹に立ち込めていた。

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