日向雨の巫女

稲石いろ

序章

 制服のブレザーのポケットから、携帯電話が振動を伝えてくる。

 皆瀬みなせ陽雨ようはシャープペンシルを動かしていた手を止めた。ため息を堪えてペンを机に置いて、机の下で念のため着信相手を確認する。――こんな時間に電話してくる相手の心当たりなんて、ひとりしかいないけれど。


 ディスプレイに表示されているのは、見慣れた名前――『霧生きりゅう朔臣さくおみ』。


 分かっていたはずなのに、ディスプレイに表示された相手の名を見た途端思わず顔を顰めてしまう。それでも、無視するわけにはいかない。


「先生」


 椅子を引いて陽雨が立ち上がると、数式を板書していた教師が振り返り、クラス中の視線が集まる。陽雨は未だに振動の続く携帯電話を掲げてみせた。


「すみません、家からで……」

「ああ。分かった。今日は早退な」

「はい、すみません」


 陽雨が会釈すると教師は頷いて板書に戻った。クラスメイトたちの視線もするりとほどける。彼らにとっては『いつものこと』だからだ。クラス替えのない二年間は彼らをすっかり慣れさせていた。いまだに慣れていないのは、陽雨だけ。

 手早く机のものを片づけて鞄を取り上げ、陽雨は授業の続く教室を静かに抜け出した。携帯電話の振動はまだ続いている。着信の相手は陽雨が応答するまで鳴らし続けるだろう。自らの職務に忠実な男だ。本心では陽雨の顔など見たくもないと思っているくせに。


 どうせいつものところにいるだろうと見当をつけた通り、見覚えのある黒塗りの車がロータリーに停まっていた。もっと目立たない場所に停めてほしいと要求していたのは初めだけで、聞き入れられないと諦めてからは、陽雨は周囲から大仰な高級車で送迎されるやんごとなき令嬢だと思われることも甘んじて受け入れている。

 実際、あながち嘘というわけでもない。陽雨は冠雪の霊峰から大小の湖沼と河川群に及ぶ広大な土地を所有する古い神社の家の跡取り娘だ。かなり特殊かつその界隈では有名な家柄なので、知る人にとっては陽雨は立派な旧家の令嬢である。なにしろ生まれたときから既に婚約者が定められていた身だ。


 ――先代当主が遺したただひとりの娘でありながら家門中から疎まれ、家名を継ぐために生涯を共にしなければならないただひとりの婚約者にすら嫌われているのだから、笑い話にしても救いようがない。


 陽雨は自嘲気味に笑って、車にもたれかかる男を見据えた。

 シルバーフレームの奥からこちらを覗く、冷ややかな切れ長の双眸。氷のごとき硬質な美貌。宵闇よりは僅かに明るいだけの、素っ気ないダークグレイのスーツ。陽雨の生まれながらの婚約者であり、付き人であり、補佐役という名の、実質の目付け役でもある――


「……朔臣」

「遅い」


 男――霧生朔臣は陽雨の片手にある携帯電話を一瞥して、ただでさえ険しい眉間にさらに深い皺を刻み込んだ。組んでいた腕をほどいて、陽雨を頭半分高いところから見下ろす。何の感情も窺えない黒曜石の瞳に陽雨の姿が映り込む。


「どうして出ない」

「……ちゃんと出てきたでしょ」


 務めの始まったころから注目を浴びるような真似は嫌だとずっと思っていたけれど、それでも言いつけ通りに授業を抜け出してきた。そもそも陽雨がこの男からの呼び出しを無視したことなど一度もない。務めを放り出したことだって、今まで一度だってない。

 十八年弱一緒にいてまだ信用されていないのか。悔しさを堪えて朔臣の横を通り過ぎ、いつも通り後部座席に乗り込もうとした陽雨の手首を、強い力が掴んだ。


「俺が言っているのはそういう意味じゃない。電話に出ろ。“水無瀬みなせ”の当主の安否を不明の状態に置くことは家人には許されない」


 “水無瀬”――現代では“皆瀬”と字を替え、陽雨の祖先が長い歴史の中で守り受け継いできた名。一般には“皆瀬神社”として知られる陽雨の実家は、旧き名を“水無瀬神社”という。


 仮にも川や水を司る龍神を祀っている神社のくせに、『水が無い』だなんてよく言ったものだと思う。それもそのはず――水無瀬は、とうの昔に龍神の守護を失っているのだから。


 それなのに、その龍神の守護を失う元凶となった陽雨を、よりにもよって“当主”などと呼ばう男が、陽雨は滑稽でならなかった。この男だって、水無瀬の守護神たる龍神を取り戻すために、陽雨に代わって水無瀬の惣領の座を手に入れるために、憎くて堪らないはずの陽雨の婚約者などという立場を甘んじて受け入れているのだろうに。


「どうせあんたはお得意の探知の術で私を補足できるんだから、私が学校にいることくらい分かるでしょ」


 朔臣の手に握られている式札に目を留め、陽雨は眉をひそめて反駁する。この男はたかが電話に出なかったというだけでわざわざ式神の術まで使って陽雨の所在を確かめたらしい。陽雨はその術の気配の一片すら掴めなかった。それが朔臣との“術師”としての力量の差を突きつけてくるようで、さらに気分が沈んでいく。

 ――“術師”。常人を超えた異なる力を操り、人ならざるものを御し、聖なるものを祀り、悪しきものを祓う者。退魔師や祓い屋、長い歴史を紐解けば陰陽師と呼ばれた者たちにも連なるという、異能の力を継承して行使する者。

 その中でも最も高名な――時代を遡れば当時の帝よりの覚えもめでたかったという五の術師の家系のうちのひとつ、龍神を祀る水無瀬家の、本家直系に生まれたのが陽雨で、分家のひとつに生まれたのが朔臣だ。せめてその生まれが逆であればと思う者は水無瀬にはたくさんいる。陽雨もそのひとりだ。


「それに、私は“当主”じゃない」

「――陽雨」


 久しぶりに、この男に名を呼ばれた気がする。好意の欠片もないような冷徹な声色。家人の中でも最も陽雨の側にいるはずの男ですら、陽雨の名を呼ぶことはほとんどない。それが陽雨の水無瀬における扱いを示しているようだった。


「……務めを投げ出したりしない。だからこうして授業を放って出てきたんでしょ。分かったから、早くこの手を離して、車を出して。こんなところでいつまでも油を売っている暇があるの?」


 校門前で言い争いをしているところを見つかれば悪目立ちする。ただでさえ“家庭の事情”で特別な扱いを受けている陽雨は、学校ではいささか浮いた存在だ。クラスメイトいわく、隙がなくて近寄りがたい雰囲気があるのだとか。

 朔臣の手を振り落として車のドアハンドルに指をかけた陽雨に、なおも朔臣は何かを言いかけた。それに重なるように「陽雨の言う通りだ、朔臣」と新たな声がかかって、陽雨はぱっと振り向いた。


「伯父様!」


 助手席から現れた男の姿に、陽雨の胸が弾む。年齢を重ねたがゆえの落ち着きと元来の穏やかさを、青藤色の着流しで包んだ壮年。彼の名は霧生きりゅう月臣つきおみ。伯父とは呼ぶものの、血縁としては陽雨の従伯父というほうが正確で、水無瀬の先々代当主である祖母の時代にその優秀さのために養子に迎えられ、水無瀬本家に次ぐ分家である霧生家に婿入りした今も、当主不在の水無瀬を“当主代行”として支える一線級の術師である。


「伯父様、いつお帰りになっていたの? いらしたのならもっと早く声をかけてくださったらよかったのに」


 喜色満面で駆け寄った陽雨に月臣が柔和な微笑を向ける。この伯父は陽雨の母のことを溺愛していて、母の面影を濃く受け継ぐ陽雨のことも幼いころから可愛がってくれた。両親のいない陽雨の保護者役でもある。水無瀬では数少ない、陽雨に親切にしてくれる人だ。――陽雨ににこりともしない彼の息子とは、まったく違う。


「声をかける隙もなく、おまえたちが口喧嘩を始めたんだろう? おまえたちはこれからの水無瀬を担う婚約者同士だというのに、相変わらず仲違いしているのかい?」


 陽雨は唇を尖らせた。頭を撫でる優しい手つきに頬が緩みそうになるのを、なんとか膨れっ面に矯正する。


「朔臣の融通が利かないせいだもん」

「仕方のない息子のことは私から叱っておくよ。今は移動しよう」


 さりげなく手を陽雨の背に回し、エスコートするように後部座席のドアを開ける。陽雨が乗り込むと月臣も隣に収まって、運転席の朔臣へと「出しなさい」と告げた。朔臣は自分の父には反抗することなく車を緩やかに走らせた。


「伯父様、助手席じゃなくてよろしいの?」

「しばらく水無瀬を離れていたから、陽雨と顔を合わせるのも久しぶりだろう。仕事前に可愛い姪と話したいと思ってはいけないかい?」

「ううん、そんなこと」


 首をぶんぶんと横に振ると、月臣の温かい手のひらが再び頭を撫でる。慈しむような眼差しに陽雨ははにかんだ。

 生まれたときに両親を亡くした陽雨にこんなふうに接してくれる相手はほとんどいない。月臣は特別なのだ。周囲は陽雨に冷たい視線を向ける人間だらけで、その筆頭が陽雨の婚約者たる朔臣である。


「……会わないうちに少し髪が短くなった。元気だったかい?」

「たまには短くしてみようかと思ってばっさり切ろうとしたら、皆から止められたの。だから少しだけ。……伯父様も、四家合同遠征、本当にお疲れ様でした。ごめんなさい、私が未成年の当主代理なせいで、いつも大変な務めのほとんどを伯父様にすべてお任せして……」

「陽雨。そんな顔をしてはいけないよ。私の可愛いおひいさま」


 悄然と項垂れる陽雨の顔を上げさせて、月臣は頬にかかる髪を耳にかけてくれる。顔が見えた、と微笑む月臣に釣られて陽雨も唇を綻ばせた。


明陽あきひの忘れ形見を支えるために私がいるんだ。陽雨と水無瀬のために私が力になれるなら、それは私にとって何よりの至福だ。どうか私の生きがいを奪わないでおくれ」


 冗談めかして言う月臣の気遣いに心が温かくなる。先代当主である陽雨の母、明陽が亡くなってからというもの、陽雨が成人するまでの間の“当主代行”として水無瀬の家を取り回してきたのはこの伯父だった。陽雨ではなく月臣こそ次の当主にという家人からの期待の一切を退けて、先代当主の遺孤を次期当主として支えると宣言し、父母という最大の後ろ盾を失った陽雨の後見を務める姿勢をずっと崩さなかった。

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