第10話 ◇最後の晩餐◇

「遠くから来てもらってご苦労さんだったね。何も力になれなくて申し訳ない。」

 薄くなった頭を下げる山田の姿にまた涙があふれてきた。

「長い間お世話になりました。」

 これで二度と会うことはないだろうなと思った。

「こちらこそ。せっかく来てくれたのだから、どこかでお茶でも飲んで帰る?庭がきれいなカフェが出来たんよ。」

 山田の気遣いが明子を深い失望の淵から引き上げてくれた。

「ありがとうございます。」

 頭を下げ、腕時計を見ると、三時半だった。

「帰らないと。息子と娘にご飯作ってやらないと。浩一にも。」

「そうやね。また今度にするか。」

 そのような機会は多分ないだろうが山田の思いやりが温かく全身に染みた。

「山田さんには迷惑掛からないのですか。部下がこんな事して。」

浩一を悪く言わない山田の事が明子は急に心配になった。テレビでも、部下が不祥事を起こすと一蓮托生で上司も降格になったり減給になったりしている。

「僕の事は心配しなくていいよ。今年定年だし。」

山田は笑った。もし退職金が減額になどなっていたら、ビールと商品券くらいでは詫びにもならないが、明子にはこれ以上どうする事もできなかった。山田の人柄に感謝するばかりだった。

明子は会社の駐車場を出ると、来た道を今治に向かって運転した。山田は明子の車が見えなくなるまで見送ってくれていた。手を振る山田の姿を見つめながら、多分浩一は会社を辞める事になるだろう。もう浩一とは暮らせない。話し合いをしなければならない。何をどうすればよいのか見当もつかなかった。

「晩御飯、何にしよう。」

 明子は堂々巡りになるばかりの頭を切り替えた。映画のシーンを見るように、過ぎていく道路わきの建物を見送っていると、いつのまにか新居浜まで帰っていた。信号待ちをしていると左側に大きなショッピングモールが見えてきた。

「何か買って帰ろう。ご飯作る気がしない。」

 明子はウィンカーを左に出して吸い込まれるようにスーパーの駐車場に入った。車の時計は四時だった。駐車場は夕食の買い物に訪れた人の車で込み合始めていた。スーパーの中に入ってまず寿司売り場に向かった。浩一の事件が発覚してから、ろくに食事を摂っていなかった。食べる気もしなかったが、今は何か美味しものが食べたかった。寿司は明子の好物だ。十貫千円の握りずしのパックを手に取った。明子の好きなアナゴやイクラが入っていた。四つカゴに入れた。大介は友達とショッピングモールに遊びに行くと言ってたので、食事は要らないと言っていたが、大食いなので、帰ってきてから、ご馳走があれば食べるかもしれないと思った。バッグの中には、女の子に示談を持ち掛けるために銀行の封筒に入った十万円があった。少々贅沢をしても足りるだろう。総菜売り場に足を運ぶと、沢山並んだ棚のおかずを客が列をなして吟味していた。から揚げにローストチキン、ローストビーフ、カモ肉のロースト、トンカツ。理沙や大介が好きそうなものが並んでいた。明子はから揚げとローストチキンと、ローストビーフをカゴに入れた。刺身盛り合わせと生ハムサラダも追加した。その時チンジャオロースに目が留まった。浩一はピーマンが好きだった。明子は手に取るとカゴに入れた。スイーツ売り場で浩一の好きなモンブランを四つ買った。カートは瞬く間に一杯になった。清算をすると、七千八百円だった。

「最後の晩餐になるかもしれない。」と、明子は思った。浩一以外の家族では明子の母を加えて外食に良く行ったが、家族四人で外食することは殆どなかった。浩一は滅多に帰って来なかったし、帰って来ると、家でゴロゴロして外に出たがなかった。明子は釣りを受け取ると、エコバックに、買い過ぎた感のある沢山の惣菜を入れた。

「ビールも買おう。」

 エコバッグをまたカートに乗せて、酒売り場へ行った。いつもは第三のビールを飲んでいたがこの日は、山田に贈ったのと同じプレミアムなビール三百五十ミリリットルを二本買い、理沙の好きなチューハイ二本。それと、その横に並んでいたシャンパンのロゼハーフに手を伸ばした。酒を飲むのは、明子と理沙だけだが、暗い雰囲気を変えたかった。そうすることで浩一との二十八年の結婚生活に区切りがつけられると思った。買い物を済ませ、陽が落ちていく、今治へ向かう国道を運転しながら、不思議と気持ちは沈んでいなかった。最後かもしれない家族の夕食を楽しもうという気分になった。以前ユーカリ薬局の涼子先生が「どんなに苦しいときでも、相手や状況を罵ったりしないで、「ついている。」「ありがとう。」「患者します。」と、唱えると良いと書かれた本を見せてくれた。マイナスの言葉を言うと気持ちもどんどん下がるのだそうだ。おいしいものを食べたいというのは、楽しい事だ。浩一のやらかした事による悲惨な状況を楽しむ頃などできそうもないが、目の前の事は楽しむことはできそうだった。スーパーを出てから三十分余りで自宅に着いた。理沙はまだ帰っていなかった。浩一の車はあったのでおとなしく家にいるようだった。膨らんだエコバックを片手に持ち、もう一方の手でバックをもって玄関の戸を開けた。珍しく浩一が出迎えてくれた。家族の踵腓期限が近付いているのを感じているのかもしれない。

「お帰り。どうやった。」

 浩一は、両手に抱えていた明子の荷物を全部持ってくれた。一応心配してくれていたのだ。でも心配していたのは、自分の身の上の方だろうと思った。明子はリビングに入ると浩一の問いには答えず二階の自分の部屋に向かった。

「着替えてくる。」

 明子が部屋で着替えていると浩一がドアをノックした。

「入ってもいい?」

 よほど気になるのだろう。明子はトレーナーに綿パンに着替えると答えた。

「どーぞ。」

浩一はまたマロンを抱いていた。

「マロンを抱いていないと話ができないのか。私なんか一人で山田に会って来たのに。」と、心の中で言った。いかんいかん。「ついている。ありがとう。感謝します。」明子は心の中で繰り返した。浩一は、明子の部屋のベットの上に腰を掛けた。大介はいないし理沙もまだ仕事から帰っていなかった。

「どうも、会社は辞めないといかんみたい。山田さんも、部長や訴たえた女の子を説得してくれたみたいなんやけど、どうにもならないみたい。」

 明子はドレッサーの椅子に腰を掛けて、山田の話を伝えた。浩一は黙っていた。

「女の子に会って示談を申し込もうかと思って、十万円持って行ったんやけど、会わないって。そのお金で帰りにスーパーによってよおけおかず買ってきたから、理沙が帰ったら食事にしよ。」

 明子の言葉にマロンを抱き寄せると言った。

「オレはそんな気にならん。」

 浩一の甘えた言葉に、今まで抑えていた感情が吹きあがってきた。

「私はどんな気持ちになったと思とんで?」 

 浩一とマロンは突然の明子の大きな声に驚いたマロンは浩一の膝から飛び降りて明子に向かって吠えた。

「バカ!」

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アラフィフの扉 @kondourika

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