かつて猫だった記憶を抱いて
さとの
第1話 猫は人間として生きている
私には猫だった記憶がある。
前世が野良猫だったんだけど、陳腐な転生もの小説みたいに、車に轢かれて死んでしまった。
きれいな白猫だった。目がエメラルドみたいな緑色で。
野良の暮らしは自由だけど辛かった。いつもお腹が減っていた。そのときも、雀を追いかけていて、気づいたら凶暴な車が目の前にあった。
死んで、目が覚めたらニンゲンの女の子に生まれ変わっていた。
それが今の私。
嘘みたいなホントの話だよ。
……たぶんね。
***
「根古さん、まだ帰らんの?」
パソコンに向かって仕事をしていると、後ろから声をかけられた。
振り返らなくても、やわらかい関西弁の声で誰だかすぐにわかる。
同僚の山本くんだ。フルネームは「ヤマモトヒロシ」。日本で一万人くらいいそうな名前だよね。
一拍の間を置いて振り返ると、リュックを肩にかけた山本くんが心配げにこちらを見ていた。体格はいいけど物腰やわらかで、大型犬みたいな男だ。
ちなみに私の苗字は根っこに古いで「ネコ」。自慢じゃないけどすごく珍しい名字だ。前世の「猫」と同じ音なのは運命としか思えない。
つり気味の大きい目にも、ふわふわの猫っ毛にも、猫の面影があった。
「んー、もうちょっとしたらね」
私はそっけなく答えた。
「そんなら俺、待っとこか? 軽く飯食ってもいいしさ」
山本くんはときどき、そんな風に誘ってくれる。
先週はそれで一度、駅前の居酒屋でご飯を食べた。
今日も、そう聞かれてちょっと嬉しかったのに、私の口からは正反対の言葉が出ていた。
「いいよ、先に帰って。お疲れさま」
「そっか、おつかれさん」
ちらと視線をあげると、山本くんはわかりやすく残念そうな顔をしていた。
彼は私に背を向けて、とぼとぼ歩いていく。
オフィスのドアがバタンと閉じる音が響いて、私はひとりになった。
「なによ、あっさり帰っちゃうんだ」
自分で断ったくせに、いざ去られると急にさみしくなる。
でも今くらいのほどほどの距離感が楽だから、誘われても二回に一回しかのらないことにしていた。今より仲良くなってしまうのは、なんとなく面倒くさい。
時計を見ると夜の八時前。私はうーんと伸びをした。
「あともう少し、がんばろうかな」
がんばるなんて「ネコ」には似つかわしくないけど、「ニンゲン」はがんばらないと生きていけないから。
本当はそんなの、嫌なんだけどね。
もっと自由に生きたい。今すぐ仕事なんて辞めたい。
でも、そういうわけにもいかないんだよね。
今日は、半休をとって昼から出勤した。理由は、朝ゆっくり寝たかったから。
猫だったときは、好きな時間に寝て、好きな時間に起きていた。
今でも、たまにそうしたくなる。休みの日に寝るんじゃなくて、平日、他の人があわただしく仕事に向かう中で、ゆっくりと布団にくるまれてウトウトするのが最高なんだよね。
だけど、のんびり午後から出勤したら、昨日仕上げた仕事に大きなミスがあることを上司に指摘されて、慌てて修正していたら、今日やらなきゃダメな仕事も全然終わらなくて、この時間まで働いてるってワケ。
ほんと、ニンゲンとして生きていくのは大変。
ま、猫として生きるのも、ぜんぜん楽ではなかったんだけどね。
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