眠れませんか?では、こちらへ。

@Yuuuuzan

第1話

井虎病院。

不眠症のみを対象とし、にもかかわらずクチコミでそこそこ高評価がついている精神病院があった。

その病院の自慢は、「入院施設の充実」「実感のしやすさ」「安心・親切・丁寧」「院長の顔が良い(笑)」とのこと。最後に関しては、これ公式ホームページだよなとつい疑ってしまうほどふざけた一文に見えた。なんだよ、(笑)って。

それはさておき、私は今とても困っている。あんなふざけた紹介文がある病院に行き着いてしまうほどの、そろそろ限界の不眠症だ。原因は仕事でのストレスだと思う。

私は人付き合いが得意ではない、むしろ苦手な人種だ。同期に対してでさえ、5ヶ月経ってようやく聞こえる声で話せるようになったくらいだ。

上司とか、先輩とか、ましてや社長にだなんて、五臓六腑もなにもかも細くなって冷えていくような心地で、とても話せない。頑張って話しても、声が裏返ったりおどおどしてしまうので、「なんだこいつ」「こいつの相手したくない」「もっとちゃんと話せる人だったら良いのに」...みたいな目で見られるのは日常茶飯事だ。わざと目を背けてみたが、背中に視線が棘のように刺さった。

なんとか、代わりに行ってきてほしいと同期に頼んでも、やっぱりやることを増やしてしまっているので申し訳ない。哀れみの目を私に向けながら、いいよと同期は言ってくれる。そういえば最近声について指導されたが、どうにかなるわけがない。決してこの会社が悪いわけではなく、私だけが悪いので、惨め惨めと自分を責め立てる毎日。そうなってしまった原因は分からない。昔からこうだった。

そうやって日々何も進めないまま死にたくなりながらパソコンとにらめっこをしていた。こんなんにもお給料は出ているので、余計に申し訳ない。

そんなもんで、悩みが消えず明日への不安は募るばかりで眠れなくなってしまった。

...と、悩んでいたとき。情報共有板にとある張り紙があった。地獄の蜘蛛の糸とは、こんなふうに垂れてくるものなのだろう。そう、それこそ私と井虎病院の出会いだった。この張り紙に背中を押され、勇気を振り絞り有給休暇を多めに取り、井虎病院の予約をし、とうとうその日が来た。

今日はいつもと違う日だからと少しは身だしなみに気を遣おうと鏡の前に立ってみた。櫛で髪を梳き、泡で顔を洗ってみる。水で泡を洗い流すと同時に、一緒に顔も流れていくような感覚がして不安になった。急いでタオルで水気を取り除き、自分の顔の安否を確認した。当たり前のように、目とか口とかがそこに残っていた。どうやら杞憂だったらしい。

でも目の下に黒ずんだ何かがこびりついていて、気持ち悪くなった。白い泡で洗ったはずなのに、しつこくそこにしがみついている。それを見て、幼い頃土遊びをして手足をよく汚していたことを思い出した。その度、水場で土を洗い流して、それが排水口に吸い込まれるのを、じっと見ていた。一方別の子は土じゃなくて蟻の隊列を見ていて、こちらになんの関心も無さそうだったのが不思議で仕方なかった気がする。

...顔を洗っていた話に戻るが、もしかしたらこれはクマかもしれない。洗っても落ちないものだ、このままで病院にいこう。でも、なんだかこのクマをお医者さん以外に見せるのは気が引ける。帽子を深くかぶろう。これなら大丈夫だろう。

服は雑に選んでも良いだろう。普段スーツに締め付けられているので緩めの服にした。グレーが目にやさしい。

財布と家の鍵を持って、携帯はわざと忘れて、病院に向かう。そうしようとして、家の鍵を閉めるのを忘れたことを思い出して、3歩くらい後戻りをして鍵を締めた。べたべたする梅雨の季節、せっかく気にした髪が台無しだ。

...あれ、雨が降っていた?傘を家においてきたことに気づいたので、一旦帰ることにした。

私はどうして、朝からこんなに疲れているのだろう。私はいつになったら、病院に行けるのだろう。...もう、行かなくてもいいだろうか。行ったほうがいいだろうか。

歩いていれば、それが決められるだろう。予約時間までの猶予の間、ゆっくり考えよう。

傘をさし、ぱらぱらと音がなった。この音がある日は、いつもより少し寝付きが良かった気がする。私は、雨が好きなのだろう。湿った土と草の匂い、雨音、傘、帽子に紛れ、足を動かした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れませんか?では、こちらへ。 @Yuuuuzan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ