『ハムレット』7

 カラオケ店のエントランスをくぐると陽が沈みかけてあたりは暗くなりはじめているというのに多くの人達がにぎやかに活動をしていた。いや、むしろこれからがお店はにぎわう時間なのだろう。どこの部屋かはわからないが人気の曲をふざけた替え歌ではしゃぐ男の声が響く。ちょっと筆舌に尽くしがたい卑猥な言葉を叫んでいる。きっとこれほどまでに声が漏れていることなど本人は気づいていないのだろう。それを考えると果たしてカラオケルームは本当に人のことを気にしなくてもいいのかどうか疑問に思う。


 受付の前に立ち、ギャルメイクの店員が「何名様ですか」と抑揚の欠いた声で質問してくる。その返事に少しだけ戸惑った。


 ひとりカラオケはアリかナシかについて話をしているのを聞いたことがある。「カラオケは歌を唄うという目的よりもみんなで盛り上がりたいという目的の方が大きいから一人で行っても面白くない」という意見に対し「むしろみんなで行くときのためにひとりで練習するために行くのだ」という意見。それに「いや、そもそも一人で行った方が同じ時間でたくさん唄えるし、大勢で行った方が値段が高くなるという理屈が合わない」という意見などさまざまだったが、ウチの考えはそのどれよりもつまらないものだ。


 そもそも、ひとりでカラオケには行かない。行かないというよりは行けないのだ。

「何名様ですか」なんてそんなことわざわざ聞かなくたって、見ればひとりだということくらいわかりそうなものだ。それをあえて何人かだなんて聞いてくるのはまるで自分は友達がいなくてひとりで淋しくやってきたのですと自己申告をさせる辱めを受けているように思えてしまうのだ。


 今日自分には明確に演劇の練習をするという意思があってここまで来てそれを忘れていたが、店員の質問で思いだし、急に恥ずかしくなって硬直してしまった。


「ふたりです」


 ウチの頭上で透き通った声が響いた。

 振り返るとそこにはあの学校の屋上で出会った一つ先輩の男子生徒がいた。同じ学校の制服を着ているし、店員は自分とこの先輩とが同じひとつのグループなのだろうと誤解したのだと気づいた。しかし、どう見ても先輩はひとりで、『ふたりです』と言ったその相手がどこにいるのかわからなかった。


「327号室です」


 抑揚の欠いた声とともに差し出されたリモコンとおしぼりの入った籠を受け取った先輩は「だってさ」と言いながらウチに目配せしてそそくさとエレベータールームの方へ一人で歩いて行った。


 先輩のもうひとりが自分なのだと気づき、自分がどうしてよいのかもわからないままとりあえず急いで先輩を追った。


 もしかすると恥ずかしがって躊躇していたウチを見かねて救いの手を差し伸べてくれたのかもしれない。沈黙に沈む二人きりのエレベーターで「あの……ありがとう……ございます」と小さくつぶやいた。


「はん?」


 先輩はなんのことを言っているのかわからない様子でひとことだけつぶやいた。

 327という表札の部屋に入る。


「あの……ありがとうございます。あとは、その……大丈夫なので……」

 先輩はウチの言葉を聞き入れることもなくそのままソファーに腰をおろし、馴れた手つきでリモコンを操作し、音楽が流れ出す。流行には疎いウチでも知っているような有名なヒット曲だ。


 臆することなく歌い始めた先輩の歌はお世辞を抜きにしてかなりうまい。というよりも、むしろ響きのあるその声は聞いているだけで心地が良くなる。ウチも思わずソファーに腰かけ、一曲が終わるまで聞きほれてしまった。


「はい、じゃあ」


 先輩がウチに向けてリモコンを差し出す。そこで、ようやく我に返り何かが間違ってしまっていることに気付く。


「あ、あの……すいません。ウチは……今日、カラオケを歌いに来たわけじゃないんです。その……勘違いさせてしまったのならごめんなさい」


「っんだよ」軽く舌打ちをした先輩は今度は黙ってウチの目を覗き込む。息をのむような鋭い眼光だ。


「じゃあ……演劇の練習でもしに来たのかな?」


 そう言って、今度はまるで別人のようににっこりと笑って見せた。あまい表情に、思わずうっとりとしてしまう……と、いうか、


「な、なんでそのことしっているんですか!」


「なんでって、今日の昼休み屋上で練習してたじゃん。あれ、リア王? やめとけよ。あんな演劇部、どうせ手伝ってやったってロクな演技なんて出来やしないんだ。なにもアンタまで一緒に恥をかく必要なんてないだろ? そんなことよりさあ、俺と……」


 冷笑したような態度に思わず気持ちが沸点に達してしまう。先輩ではあると理解しつつもいつしか声を荒げてしまった。


「どうしてそういうこと言うんですか! 人がせっかく一生懸命やっていることを部外者が偉そうなこと言わないでください! あなたに何の権限があってそんなことを!」


「はあ? 何の権限だって? そりゃあアンタ……え? もしかしてアンタ、俺のこと誰だかわかってない?」


「え? あなたが誰かなんて、まだ名前だって聞かされた覚えもないわ」


「ハッ、まいったな。俺くらいのいい男、みんな知ってると思っていたんだけどな」


「あいにく、ウチの周りにはいい男というのが間に合ってるもので」


「ふーん、あの、黒崎とかいうやつか?」


「そう、有名なのね黒崎君……」


「俺ほどじゃないだろうけどな」


「そう……でも、それだけじゃないわ」


「あん? ほかに、俺くらいのいい男なんていたっけかな?」


「いるわよ……そのくらい」


 ――もちろん。それが誰かなんて言わない。それにたぶん、その人の名前を出したところでこの人は納得なんてしないだろうし……


「――まあいいさ。俺の名前は城井だ。城井、将彦」


「……シロイ? マサヒコ…………」


 たしかにその名前には聞き覚えがあった。二年生で演劇部のエース。たしか平澤先輩が衣装を燃やしてしまうという失態をさらしたことにより、怒って部をやめると言い出した張本人だ。


「なんだ。やっぱり知ってたのか。俺のこと」


「ええ、それは……だって、演劇部を窮地に追いやった張本人じゃないですか」


「ふっ、俺が悪者かよ……。ま、確かにそうかもしれないけどな」


 不貞腐れた城井先輩は、脇に置いていた鞄をがさごそとやり、奥の方から手の平サイズの箱を取り出した。その中から一本取り出して口に咥え、箱を投げ捨てるようにテーブルの上に置いた。ポケットから使い捨てのライターを取り出し、火をつけようとする。


「ちょ、ちょっとやめて下さい。こんな狭いところでそんなもの!」


「んだよ、うるせえな」


「だってそうでしょ! 国の法律だって――」


 いいながら、ふと気が付いてしまった。今回の演劇部の崩壊に関する出来事の真相……


 ウチは一瞬にしてクールダウンし、あえて冷たい口調で言った。


「やっぱり……悪者は城井先輩なんじゃないですか……。あの小火騒ぎは、平澤先輩が犯人なんかじゃないわ」


 その言葉を聞き、城井先輩は何も言わずウチの方へと視線を流した。それ以上は言うなと言っているのがわかるが、もちろんウチはそんなことに躊躇なんてしない。


「先日、おかしいなって思ったんです。ウチは学園祭の実行委員で体育館の担当だったから、会場の設営のため寸法を測りに行ったんです。そしたら、なんだか以前よりも体育館全体が白っぽいなあと思ったんです。それで、少ししてわかったんです。あの体育館の照明、全部REDライトに替わっていたんです。生徒会長に言って資料を見せてもらったら、たしかに夏休みのはじめに体育館全ての照明がREDに付け替えられていたんです。

 おかしいですよね?

 平澤先輩が小火を起したっていうのは七月の終わりのころの話なんです。REDの照明で収斂現象なんて起きますか? 本当の火事の原因は、もっと直接的な原因があったんじゃないでしょうか。もっと確実に、引火してしまうような火元がそこにあったんじゃないですか?」


 真剣に迫るウチの表情を見て、城井先輩は笑った。そして罪を認めるでもなく謝るでもなく意外なことを言い出した。


「さあ、演劇の練習を始めようか」


「ちょ、ちょっと待ってください。何でそういうことになるんですか」


「俺が直々にお前の演劇のコーチになってやんよ。今日、アンタはここに演劇の練習をしに来たんじゃなかったのか?」


「もしかして、口止め料ってことですか?」


「ちげーよ。そんなんじゃない。アンタには素質があるって言ってんだよ。だから、俺が直々にコーチしてやる」


「い、言ってる意味が……」


 ともあれ、演劇部のエースである城井先輩が直々に指導してくれるというのは、あまりみんなと一緒に練習のできないウチにとって悪い話ではなかった。


「このことは他の連中には絶対に秘密にしておいてくれ」


 という彼の言葉の裏には、もしかすると自分の罪を認めながらもそれを言い出せない気持ちがあるのかもしれない。だからウチに対してコーチ役を買って出ることがせめてもの罪滅ぼしだと考えているのだろうか。


 知ってしまった真実を誰かに言うべきか、言わざるべきか、それはきっとたいした問題ではないだろう。今更事実を知ったところできっと誰もが自分の次にとるべき行動に迷ってしまうだけで、なんら根本的な解決にはならないだろうし、そもそもウチはそんな役回りのキャラではない。


 そして守られた秘密によりそのまま何事もなく時は過ぎ、学園祭前日を迎えた。正直、自分の演技力は格段に向上したと思う。皆の足を引っ張らないで済むくらいにはきっとなれただろう。


 学園祭の前日は多くの生徒が準備のために遅くまで学校に残り、学校側もそれをやむなしと認めている。夜の八時を過ぎると九月末の空はすっかり真っ暗に染まり、冷たい風が山の中腹の校舎を通り抜けるようになる。


 日中の暑さしか経験のない生徒たちは上着を持たないままに夜の作業をこなしながら「さむいさむい」と愚痴をこぼしながらも、それはどこかお祭り騒ぎの延長のように楽しんでいるようにも見える。


委員会の仕事を終えてから演劇の準備に合流し、ようやくひと段落終って解散しようとなったのはもう夜の九時を回っていた。ウチと黒﨑君と竹久の三人でクラスの出し物のコスプレ喫茶用に装飾された教室に荷物をとりによって教室を出ようとするとき、ウチはかねてからの計画通りに竹久を呼び止めた。


「あ、ごめん竹久、ちょっと今日のうちに確認しておきたいことがあったんだけど、ちょっといいかな」


 白々しくも演劇用の脚本を取り出して見せるウチ。


「ああ、それじゃあオレ、先に行っとくわ」


 黒崎君が教室を出て行き、夜の教室に竹久と二人きりになる。


「どうしたの?」


 あっさりとした口調でウチの傍に寄ってくる竹久。きっとあなたは、ウチのこの胸の高鳴りなんて気付いてもいないのでしょう。

 本当はこんなこと、やるべきかやらざるべきか随分迷ったのだけれども……



 シェイクスピアの物語は、不義を働く女性を許さない傾向があると思う。

 ハムレットのガートルードは父の意思とは別に殺されてしまうし、リア王に辛辣な言葉を言ったコーデリアも死んでしまう。オセローのデズデモーナに関しては不義の疑いだけで殺されてしまうのだ。


 だとしたら、やはりウチなんて生きてはいられないのだろう。万死に値する行為だったと言ってもいい。だけれどもはやこの想いは、生きるだとか死ぬだとかそういうことはもはや問題ではないのだ。シェイクスピアの劇に登場するヒロインたちだって、皆そんなことを気にしてなどいない。自分の信じたことをやり遂げるだけのことなのだ。



 ウチは脚本を開き、ゴネリルの最初のシーンのセリフを指で指す。リア王の従妹にあたるゴネリルが愛を告白するシーンだ。

 そのセリフを指でなぞりながら言ってみる。


「ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ――」


「うん」


 竹久が小さくうなずく。


「これ、少し変じゃないかな?」


「そう……かな?」


「ほら、だってゴネリルはリア王の従妹という設定なわけだし、きっと幼いころから何度もあっているはずよね? なのに初めてお会いした時から――というのは少し変じゃないかしら?」


「――ああ、たしかにそうだな。どうしよう」


「ウチね、差し出がましいようなんだけど差し替えのセリフを考えてみたのよ」


「さすがだね。で、どんな?」


「うん、それでね、ちょっと……本番のための練習がしたいの。少しだけ付き合ってくれないかな」


「もちろん」


「じゃあ、リア王役をお願い」


「うん、わかった」


 ――なんてウチは小賢しいのだろう。つまらない茶番の演出に自身で呆れ返ってもいるが、それでもこれはこれで自分自身必死でもあるのだ。


 ウチの正面に立った竹久は、手に脚本を持たずにじっとウチの方を見つめてリア王のセリフを言う。少し恥ずかしいが、きっとその方が都合がいい。もちろんウチもカンニングペーパーは持っていないし、必要もない。自分の心の内を言えばいいだけのことなのだから……


「ではゴネリル。君の気持ちを言ってくれ。君はわたしのことをどう思っているのだ?」


 緊張が背筋を這う。軽く深呼吸をしてリア王を、いや、竹久を見つめる。


「はい、リア王様。あなたはお気づきになんてならなかったかもしれませんが、わたしはずっと以前からあなたのことを見つめていました。しかしそれを恋だと気づくには少しばかり時間がかかってしまったかもしれません。

 相手の身分を問わず等しく皆に気づかいのできるそんな優しさを持ったあなたに惹かれていったのかもしれません。

 あなたはお笑いになるかしら? 今もこうしているわたしの胸があなたに焦がれる思いで張り裂けそうになっていることを?

 いいえ、わかっております。あなたには想いを寄せている人が別にいることくらい。

 それでも、こうしてこの想いを打ち明ける機会を与えて下さったことに、心より感謝をしているんです」


 そう言って、静かにうつむいて両手でスカートのすそをつまみ、ひざを軽く曲げてお辞儀をする。


「……どう、かしら?」


 聞いておきながら、顔はうつむいたままだ。ウチの表情は演技をしているという建前があるにもかかわらず真っ赤に紅潮してしまって誰にも見せられない状態になっている。


「……いい。すごくいいよ! そう、そうなんだよ。この言葉があるから、この言葉があった後だからこそ冷たいコーデリアの態度に落胆してゴネリルを選ぶんだ。さすがだよ笹葉さん」


 竹久の賞賛の言葉が素直にうれしい。たとえそれが演劇上のセリフに対するものであっても十分だ。


「ありがとう。でも、これは本番のための練習。本番は、きっともっとうまくやって見せるから」


「ああ、期待しているよ」



 ――今のウチにはこれが精いっぱい。

 果たしてその本番がいつ来るのかなんて今はわからないけれども、いつかは来なくてはならない。



 ――to be or not to be


 するべきかしないべきかは問題じゃない。しなければ幕は上がらないし、幕も下りない。

 いつかは必ずしなければこの気持ちはどこにもやることができないのだ。

 

つまりはそれがいつなのか、そこが問題だ――。

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