『ハムレット』6

 学園祭までは残り一カ月ほどの期間しかなく、そのほとんどが素人同然のメンバー。放課後は毎日閉校時間ギリギリまで猛練習が行われた……らしい。

 ウチと瀬奈は、毎日の実行委員会が閉校時間ギリギリまで長引いて練習には参加できない日々が続く。委員会全体の打ち合わせも、そして担当の体育館ステージのエリア担当の打ち合わせも共に生徒会長である星野先輩が取り仕切る。しかし相変わらずこの人は自分の話ばかりをして何も決められないまま時間を溝に捨ててしまわなければならないというジレンマを抱えている。  


日によっては閉校時間を過ぎてなお場所を校外の喫茶店などに移して意味のない延長戦を繰り広げなければならないこともある。ウチも色々と無理を聞き入れてもらっているという負い目もあってなかなか断ることもできない。


 結果、みんなと一緒に練習に参加することはままならない。皆は気を遣って気にすることはないと言ってくれているが、みんなと合わせて練習できないということはあきらかに迷惑をかけている。瀬奈は相変わらずなんでも器用にこなし短い練習時間でガートルード役をほぼ完璧にこなしていく。対してウチは発声すらままならない状態だ。元々が大きい声を出すこと自体にあまり慣れてはいない。瀬奈のように人前で大きな声を出して歌うなんて到底できないことだ。はっきり言って演劇というものを甘く見すぎていた。明らかに自分が皆の足を引っ張っていることを自認する。


 最低限、発声練習だけでもしておかなければならない。しかし世の中は意外と大きな声を出していい場所というのは少ないのだ。ひとの行きかう路上はもちろん団地である自宅であっても大きな声を出して許される場所ではない。夜中の公園などひとけのないところに行ったとしても、そんなところで演劇用のセリフ(ましてやリア王への愛の告白)など大きな声で言っていたとしたら警察に通報されてもおかしくはない。いや、通報されなかったとしても誰かに聞かれてしまっているかと思うだけでもゾッとしてしまう。


 では、校内ではどうだろう。放課後の旧校舎では皆がそろって練習しているわけだが、あいにくウチはその時間に委員会に出席していなくてはならない。昼休みの時間にでもどこかひとりになれる場所でもないだろうかと考えた挙句、一か所だけ人の来ない場所が頭をよぎった。


 校舎の屋上に上がり、屋上踊り場のドアを開けてあたりを見渡す。案の定誰もいない様子だ。万が一に備え、唯一の出入り口であるドアに背をあずけ、隠し持っていた脚本を開いてゴネリルのセリフを指でなぞる。


 まずは開幕のシーン。リア王に呼ばれたゴネリルとコーデリアとが順番にリア王に愛の告白をするシーンだ。先にゴネリルが告白し、そのあとでコーデリアがそっけない態度を示す。


 ゴネリルが告白する時点で彼女は望みが薄いと知りながらも精いっぱい想いを伝えなければならないのだ。


〝ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ。あなたという存在を知ってしまったこの瞳は、もはや虹を見てもその色を感じず、星のまたたきを見ても胸躍らせることもありません〟


 思った以上に声は出ない。それどころか怯えるあまり声は震えているし、声量を探るあまり声はセリフの途中で大きくなったり小さくなったりしている。

安易な気持ちで演劇をやるなんて引き受けてしまったことに少しだけ後悔する。

大きくひとつ深呼吸して、脚本のセリフのはじめをもう一度指でなぞる。


「ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ――」


 そこまで言いかけたところで、「オレもだよ」という声が響き渡る。

 びくっとしてセリフを止め、声のする方向。屋上の給水塔の奥に目をやる。

 いぶしたような匂いが風に乗って届く。そのにおいだけで、そこにいるのが誰だかわかったような気がする。


 給水塔の裏からひょっこりと、とても目鼻立ちの整った顔がのぞく。ネクタイは緑色で二年生のものだとわかる。彼とは以前にもここで会ったことがある。ウチとは別の理由でこのひとけのない屋上をお気に入りの場所にしているらしい。


 整った顔でウチのことを少しの間見つめ、「奇遇だな。オレも初めてあんたを見た時からとりこなんだよ」と、まじめな顔で言い終わると、急にくしゃっと顔をゆがめて「はははは」とバカにしたように笑う。

 顔を一瞬にして赤くしてしまったウチは逃げ出すように扉を開けて屋上から立ち去った。


 なかなかひとりになれる場所なんて、意外と少ないものだ。

 ましてや、大きな声を出して誰にも聞かれないような場所なんて……


 その日の放課後、委員会は比較的に早くに終わった。少しは演劇の練習に参加できるかと思っていたのだが……


「アタシ、今日のうちにちょっとでも回っておくわ」


 瀬奈が言った言葉に「どういうこと?」と問いただすと、


「うん、自分で言いだしたことだしね。今日のうちに校内でのキャンプファイヤーの開催について少しでも近隣住民の理解を得ようと思って……」


 聞けば星野会長からは近隣の住民からの理解が得られるのならばOKという返事をもらったらしい。校内の防火管理については星野会長が動いてくれていたようだ。


「――待って。それならウチも一緒に行くわ」


 気づけば誰もが自分に与えられた任務を一生懸命にこなしているのにウチだけが何もせずにいることが許せなかった。瀬奈の仕事にウチ一人がついていったところでなんの役に立つかもわからないけれど、瀬奈の「うん。助かる」と言って微笑んでくれるだけで少しだけ報われる自分がいる。そんなの、たいして価値のあるものじゃないけど……



 近隣住民の反応は上々だった。反対したり不服を言うものは誰一人としてなく、皆が皆口をそろえて「頑張ってね」と優しい声を掛けてくれる。それはひとえに近隣住民の理解がるというよりも、瀬奈の社交的な物言いのたまものだろう。もしウチが先陣を切って話していたならば一律真面目で辛気臭い言い方をして、近隣住民に「火を使うなんてそんな危ないことを――」などとつまらない心配を与えてしまったかもしれない。しかし瀬奈は、時には明るく元気に、時には真面目で丁寧な言葉遣いを、そして時には弱者が相手に物乞いをするようなまなざしで協力をお願いする。相手に余計な不安を与えないように世間話をしたりする。相手の性格を瞬時に判断して自分のありようを変えて見せているようでもあった。しかし本人は、そのことについて一向に自覚がないというのだ。


 ある家に訪問したときのことだ。学園祭の後夜祭でキャップファイヤーを開催したいことの説明を受けた4、50代の女性は言った。


「あら、でもそれって少し縁起が悪くないかしら? ねえ、だってほら。ねえ、お母さん」


 女性は玄関先の隣の和室にいた母親らしき老齢の女性に声を掛けた。老齢の女性は曲がった腰を引きずりながら玄関まで出迎えてくれて昔話をしてくれた。


「そりゃあ、若い子なんかは知りゃあせんじゃろうけどなあ。金山(かなやま)(ウチの学校がある山の名前)には昔神様がおる言われとってなあ。昔は神の山と書いてカナヤマじゃった。山の上にはお堂があってな、そこには村から若い娘が一人巫女として選出されてな、一生を一人でそのお堂で暮らしながら村を見守るっちゅう風習があったんじゃ。そんで年老いて巫女ができんようになったら山を下りてまた別の娘が巫女として選ばれるという風習じゃ。

じゃけどな、そりゃあ年ごろにもなると恋のひとつやふたつするわな。村の若い男とな、巫女が恋仲になってしもうて男は夜な夜な山の上のお堂に忍び込んどったちゅう話じゃ。それを知った村のもんはどうにかしてその二人を引き離そうと必死になってな。最後には二人お堂に火をつけて心中してしもうたんじゃ。それ以来、金山の巫女の風習はなくなってしもうたんじゃけどな、そのお堂の後に建てられたんがアンタらの学校という訳じゃ」


そんな話は一度も耳にしたことがなくて、それは多分瀬奈にしても同じだろう。そんな話をはじめから知っているなんて思えない。

丁寧に語ってくれた山の伝説に、ウチは確かに縁起が悪いような気がした。しかし瀬奈は違った。


「だからこそなんです!」


 老齢の女性をまじまじと見つめた瀬奈は思いもよらぬことを言い出した。


「山の巫女の魂は今もあの場所で街を見守っていると思うんです。だからこそ、私たちは毎年学園祭を無事に終えることができた感謝のいのりを捧げるためにキャンプファイヤーをすることで鎮魂の儀式にしたいと思っているんです!」


 思い付きからの口から出まかせ。それを真に受けた母娘は納得してキャンプファイヤーの開催を承諾してくれた。最近瀬奈のそういうところが竹久に似てきているように感じる。


 そして帰り道で瀬奈はそっとつぶやいた。


「うん、今の話。使えるわね」


 放課後の学校に戻るが演劇部の練習も終わり解散してしまった様子。まともに演劇なんてやったことの無いウチはまったくの我流でなんとなくの練習こそすれ、せめて誰かに聞いてもらってどうすればいいかのアドバイスくらいは欲しかった。いまだにろくな発声すらできないでいる。もう帰ってしまった竹久を呼び出したりするなんて申し訳なくてとてもできないし、瀬奈もバンドの練習をすると言ってカラオケルームに行ってしまった。


 ――ん? カラオケルーム? 

 たしかにその場所ならば誰かに気を遣うこともなく大きな声を出すことができる。

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