『リア王』5
時間は瞬く間に過ぎ去ってしまう。いつの間にか放課後の時間は過ぎ去り下校指示の時刻が迫っていた。気に入らないところに赤ペンを入れていくつもりがいつの間にか原稿は真っ赤になっていて、直すというよりほとんど最初から書き直したほうがい
いようにも思えてくる。荷物をまとめて帰り支度を始めることにした。
「竹久、まだいたの?」
静かな教室に声が響く。教室に差し込むはちみつ色の夕日が室内の埃をきらきらと輝かせ、それはまるでダイヤモンドダストのような輝きを放つ中にたたずむ彼女。こうしてみると、いや、こうして見なくてもやはり彼女は美しい。
「笹葉さんお疲れ。こんな時間まで委員会?」
「うん……でも、ほとんど意味のない話し合いだけでなんにも決まっていないわ。このままで学園祭、間に合うのかしら」
「ごめんね。なんか押し付けちゃったみたいで」
「ううん、そんなこと……ウチが自分でやるって言い出しただけのことだから」
各クラスから代表でひとり文化祭の実行委員を選出しなければならない。当然放課後の毎日をそんなことにつぎ込みたいとはだれも思わず、責任感の強い笹葉さんが立候補した。たぶん彼女からしてみれば恋人と別れて放課後に暇を持て余してしまった穴埋めという意味が含まれていたのだろうけれど、そんな彼女の行動を点数稼ぎだと悪く言うものも少なくない。
それはおそらく笹葉さんの容姿が人並み外れて美しすぎるというのもあるだろう。ましてやみんなの憧れである黒崎大我と一時期ではあるが恋人同士だったのだ。妬まれても仕方がない。
「あれ、ユウ。まだいたんだ」
そこにもう一人の美女が登場する。笹葉さんの親友の宗像瀬奈だ。彼女もまた成り行きで学園祭の実行委員のクラス代表になってしまったという。しかしこうして二人並んで立っている姿を見るとやはり甲乙つけがたい存在だ。万が一にもあり得ない話だろうけれど、僕の書いた脚本のリア王のようにこの二人から同時に愛を告白されたとしたら、それは本心の中でどちらかだという結論があったとしても、どちらかを選んでどちらかを切り捨てるなんてとてもできない選択なんだろうと思う。
わかっている。もちろんそれは最低のクズの選択だ。
「二人とも今から帰り?」
僕は二人を一緒に帰ろうと誘うつもりだった。友人の大我は部室に栞さんと二人きりにしているのであの二人が一緒に帰るのが望ましい。
そしておこぼれにあずかり両手に美女を侍らせての下校役を僭越ながら引き受けようと考えた次第だ。しかし――。
「アタシ今からちょっと用事あるんだ。ゴメンね」
瀬奈は僕がまだ一緒に帰ろうと誘ってもいないうちに断りを入れて立ち去ってしまった。
教室には僕と笹葉さんの二人だけが取り残される。
少しばかりの気まずさの中、それでも自然な成り行きで二人は並んで教室を出て、一緒に駅へと向かう道のりを歩く。
「そう言えば竹久、学園祭の演劇の脚本書いてるんだって? 瀬奈から聞いたわよ」
沈黙の気まずさを紛らわすように、笹葉さんは思い出したように言った。
「うん、シェイクスピアの戯曲をいろいろ合体させてパロディーをつくってみたんだ」
少し得意気になって、鞄から原稿の束を取り出す。それをさも自然に手に取った笹葉さんは歩きながらその原稿を読み始めた。
少し間をおいて、マズイことをしてしまったと気づく。
物語のストーリー上、リア王が大我でコーデリアが栞さんだとすれば、はじめに結婚するにもかかわらず、後半捨てられてしまう幼馴染のゴネリルはまさに笹葉さんそのものだ。まだ失恋の傷の癒えていないだろう彼女にこんなものを見せてしまうというのはいかに気のまわらない男だろうか。
かといって今からその手に持っている原稿を奪うというのも甚だおかしな行為である。彼女の様子を横目でちらちらと伺いながら歩く。
つまり、ちゃんと前を見て歩いていなかった。それは笹葉さんにしても同じことでふと気が付くと彼女は道を少しそれて道路わきの桜の木に激突する直前だった。
「あぶない!」
彼女の腕をつかんで手前へと引っ張ると、何事がおきたのかわからない笹葉さんは目を丸くして僕の胸の中へと倒れ込んだ。彼女が倒れてしまわないようにと、しっかりと受け止めようとするあまり、僕は笹葉さんを抱きしめるような形になった。
「あ、ありが、とう……」
「い、いや……なんか、ゴメン」
彼女を抱きしめた格好のままで互いに恥ずかしそうにつぶやく。僕の腕の中にいる笹葉さんは、とても柔らかく、甘い香りがした。非常事態とはいえ罪悪感が体を走る。
ゆっくりと離れ、それからまた無言で歩きはじめた。気まずさを紛らわせるための意味のない会話を始めてくれたのは笹葉さん方だ。
「『リア王』が中心の話なのね。まだ、最初のところしか読んでいないけれどハムレットとそれにロミオとジュリエットがミックスされているのね」
「うん。でも、物語全体のテーマは全然違ったものにしているんだ。
ほら、本来のリア王って〝老い〟によって失われていくものを描いているでしょ? でも、まだ若い僕らにとってはイマイチぴんと来ないテーマだなって……」
「だから若いリア王にして、〝老い〟に近い存在の〝過ぎたことへの後悔〟をテーマにしているわけね」
「さすがだね……。最初だけ読んでそこに気付いているなんて」
「でも、目の前の樹には気付かなった」
「うん。それはほんとに気を付けて」
その言葉で、ふたりは「ふふふ」と同時に肩を揺らして笑う。
駅に着いたがまだ電車は来ない。僕と笹葉さんは別々の方向の電車に乗るのだが、田舎の駅は次から次へと電車が来るわけでもなく、片側一車線ずつのホームだと電車を確認してからでも急いで向かいのホームに行けば間に合う。
僕たちは降りの駅のホーム(それは笹葉さんが乗る電車のホーム)のベンチにふたり並んで座り電車を待つことになった。
笹葉さんは思い出したようにシェイクスピアのリア王について話し始めた。
「ねえ、ウチ思うのね。『リア王』の本当の主人公はリア王でもコーデリアでもないんじゃないかなって」
「主人公がリア王じゃなくてコーデリアでもない? えっとー、じゃあグロスター卿エドガー……かな。グロスター卿のエドマンドとエドガーのストーリーは結構無視されてしまいがちだけど、リア王が悲劇的な結末を迎えるのに対し、並行するエドガーの物語は大団円になる。
物語的には確かにそっちを主人公と考えた方がきれいにまとまっているようには感じるけど……」
「うん、まあ、それもあるのだけれど、ウチが思う主人公は道化師なんじゃないかなって」
「道化師?」
「そう。特にリア王の物語なんかだと、みんな王に対してゴマをすってばかりで、そんな周りに対して王自身がいい気分になっているように感じるんだけど、唯一無礼講を許されている道化師はその立場を利用して、王に対して言いたいことを言うのね。愛娘であるコーデリアでさえ本心を言ったことでとがめられているというのに、それってすごいことなんじゃないかしら」
「ああ、たしかにそうだ。僕もあの話を見て思ったのは、いくら道化師とはいえ、あれほど好き勝手に言えるものなのかなって」
「たぶん、実際にはいくらなんでもあそこまでは言えないんじゃないかしら。でも、シェイクスピアは演劇の中であえてそれを道化師に言わせることによって、王自身にその意思を伝えていたんじゃないかしら。当時のシェイクスピアの人気はすごくて、エリザベス女王も観に行っていたっていうくらいだから……」
「そう言えば、たしかシェイクスピア自身、道化師の役を演じていたって聞いたことがあるな……。シェイクスピア自身は自分の意見を素直に王に言っていいような身分ではなかったし、もし、シェイクスピアの戯曲を書いたのがシェイクスピア自身ではなく、その素性を隠したい貴族のひとり、たとえばフランシスベーコンだったりするならば、尚更王に本音なんて言えない立場だったろうね」
「ほら、ね」
「あ、でも、リア王の劇の中で、前半あんなに印象の強いキャラクターだったのにもかかわらず、後半急に出てこなくなるんだよね」
「そうなのよ。ちょうどもう一人の主人公かもしれないって言ったグロスター卿エドガーが〝トム〟と名乗って登場するあたり」
「後半はまるでトムが道化師みたいに狂った口調でリア王に好き放題の言葉を言うんだ」
「ねえ、もしかするとシェイクスピア自身は道化師とエドガーの二役を演じていたんじゃないかしら。だから、後半エドガーが活躍するようになってからは道化師を登場させるのが難しくなったんじゃないかしら。だけれどもその分、エドガーが劇中で作者が最も言いたいこと言う役回りになった」
「うーん、それは……どうなんだろうか? でも、まあ、そこのところを勝手に想像してしまうっていうのも面白い見方だよね」
「ねえ……」
「うん?」
「竹久がリア王だったらどうする?」
「僕がリア王だったら?」
「うん、もし竹久が想いを寄せている相手がそっけない態度をとっていて、そんな時にそれほど好きでもない女性から好きだって言われたら……」
「そりゃあもちろん断るさ……と、言いたいところだけど、実際どうだろう。僕はそんなにもてたことが無いからよくわからないけれど、その場の雰囲気に流されて間違った選択をしてしまうと、きっと後悔し続けることになるだろうから……」
僕は、そういながら立ち上がる。
反対車線の線路の先、遠くの方からやってくる電車の姿が見えたからだ。
「それじゃあ、またあした」
「うん、またあした」
僕が上りの電車に乗り込んでも、すぐに電車は発進しない。反対車線の下りのホームにも電車がやってきて、この駅ですれ違う予定だ。
反対車線にいた笹葉さんもベンチから立ち上がり、ホームに入ってきた電車に乗り込む姿が窓から見える。
やがて二台の電車はゆっくりと動き出し、それぞれ別々の方向へとゆっくり走り始めた。
僕は、リア王の物語を読んで改めて思う。
人は誰しもいろんなしがらみの中でその想いを隠し、偽らなければやってられない時というのはあるものだ。
しかし、もしリア王が初めから自分の気持ちに正直に生きていたならどうだろう? 物語は、全く違ったものになったのではないだろうか。
リア王の物語の中心には、〝老い〟に対する儚さが描かれている。
それはひとえに、失敗を犯した時に老いのせいで取り戻せないという部分もあるのではないだろうか。
さいわいにも僕たちはまだ若い。
犯してしまった失敗に足を引きずられて身動きできなくなるとは限らない。
失敗してもやり直すだけの余裕は残されているのではないだろうか。
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