『ヴェニスの商人』8

 それから学校に戻ったのはちょうど午前の授業が終わり昼休みになったころ。そろそろ、エピローグに移るところだ。


 まずは大我のところへ向かう。今まさにどこかで買ってきたであろうパンを取り出してかじろうとしているところだった。


「大我、今からメシか?」


「ああ、授業をサボってどこに行ってたんだ?」


「ちょっとこれを買いにね」ダディで買ってきたサンドイッチの袋を差し出す。「差し入れだよ。まあ、ちょっとばかし有名なお店のサンドイッチだ。実は、これを買いに行くために4限目をさぼった」


「そんなにうまいのか?」 


「まあ、それはどうだか知らないけれど……これをやるから、少し頼まれごとをしてくれないかな」


「俺に、出来る事か?」


「大我にしかできないことだよ。これを持ってさ、文芸部の部室へ行ってくれないか?」


「漫画研究部。だろ?」


「そんなことはどうでもいい。そこには多分ボッチめしをしている生徒がいるだろうから言って相伴してくれないかな?」


 ――さすがに、ここまで言って事の次第を理解できないほどに僕の友人はアホではない。


「……ああ、すまないな」


 サンドイッチを受け取る大我。


「いいか、大我。その子にちゃんと『あーん』てしてやるんだぞ」


「マジか?」


「マジだ。絶対それを望んでいる」


「わかった。俺に任せておけ」


 

 勇ましく立ち去る大我を見送った僕には最後にもうひとつ、やっておかなければならないことがある。


 こっそりとひとりで教室を抜け出そうとしている美少女を呼び止める。


「笹葉さん。よかったらお昼、一緒に学食に行かない?」


「え、あ……」


 警戒しながらあたりを見回す。


「大我は用事があるらしくあいにく僕一人なんだ。さすがに一人で飯を食うのはさみしいから僕を助けると思って付き合ってくれないかな?」


「あ、え、えっと……」


 それでも少し戸惑う笹葉さん。こんなことでフラれたりしないようにちゃんとフォローを入れておく。


「この間の覆面作家の件、ようやく決着がついた。それで、その事の報告もしたいしさ」


「え、あ、じゃあ……うん……」


 上手く美少女とのランチタイムの約束を取り付けた。とか言いながら、笹葉さんとはおととい本当に二人きりでランチをしたのだけれども……

 

 一般的な学食に比べて、はるかに見栄えのする、それこそそれなりのレストランのようなたたずまいの学食に入り、学生服の上にエプロン姿のスタッフに案内されてテーブルに着く。


 この学校には調理科という科がある。言うまでもなく将来的にコックになることを目指した生徒の通う科だ。調理科の生徒は昼休みにあたるこの時間、授業の一環としてこの学食の調理やサービスを行いながら運営をするという仕組みになっている。


「ご注文は何になさいますか?」


 ややふてくされた様子の調理科の生徒が制服エプロン姿で注文を聞きに来る。

 まったく。態度の悪いスタッフがいるものだ。後でクレームを入れておいてやることにしよう。


「ち、違うのよ瀬奈。べ、べつにこれには理由があって……」


 笹葉さんが、必死に調理科のウエイトレスに言い訳をしようとしている。


「笹葉さん。別に誰も疑ってもいないし誤解もしていないんだから、そんなに言い訳するとかえって怪しくなるから。別に、前から僕たちはこうして一緒に昼食をとっていたわけだし……ただ、今日は大我がいない、それだけだよ」


「そうよ。別にサラサが言い訳する必要なんてないのよ」


 ウエイトレスが、やや不機嫌そうに言う。


 僕たちは日替わりメニューのパスタを二人前注文して、それからことの顛末を全て話した。


 喫茶店ダディのマスターには「誰にも言わない」と言ったばかりだが、元より嘘つきな僕はそんなことを気にすることもなく、ラノベ作家の正体がダディのマスターであることまで全て話した。


「つまりはゴーストライターだったというわけね……」


「なに? 幽霊が書いていたの?」


 笹葉さんの言葉に、「いつの間にか僕たちのテーブルのすぐ横に立っていた瀬奈が言った。仕事をそっちのけで僕たちの会話を盗み聞きしながら、いてもたってもいられなくなったらしい。


「いいのいいの、今日はもうだいたい終っちゃったし、休憩中なのよ」


 聞いてもいない言い訳をする。仕方なしに話を続ける。


「瀬奈、そんなわけないだろ。死んだ人間は何もできないよ。ゴーストライターっていうのは別の人が書いたっていうことだ。ほら、シェイクスピアの戯曲は実は別人が書いたんじゃないかって話もあるだろ」


「あ! それならアタシ知ってるよ。たしか、フランス産のベーコンだよね?」


「……たぶんそれはフランシスベーコンじゃないかな」笹葉さんが適切なツッコミを入れる。「貴族でも何でもないシェイクスピアが貴族の生活を事細かく描いたり、海外での出来事を正確に描けるのはその作者が実は貴族だったり、外交官だったりするんじゃないかという説がいろいろあるのよ。でもまあ、結局のところ誰が書いたかでその作品の価値が決まるわけじゃあないけれど」


「そうだな。たとえシェイクスピアの正体が誰であろうと、シェイクスピアの作品群はどれもずば抜けて素晴らしいものばかりだ。その作品価値は作者の年齢だとか、生い立ちによって左右されるものではない。まあ、現代においてそれが不変の事実かはさておきね」


 僕からの報告は以上だったが、乙女が二人いれば話はそれでは終わらない。


「ねえ、それはそうとしてやっぱりとべっちさんはふーちん先輩のことが好きなことには変わりないでしょ。もしかしてこれから先、二人が結婚して本当に『平澤かおり』が誕生するかもしれないのよね?」


「え、もしそうなったら親子そろって平澤かおりになるってことかしら? たしか戸部先輩のお母さんの名前って平澤かおりっていうのでしょ?」


「え、そうなの? じゃあさ、もし二人が将来結婚したら、戸部先輩の母親も合わせて三人の平澤かおりが誕生するってこと?」


「いや、ちょっと待って……マスターの初恋の人の名前が平澤かおりってことは、もしかしてマスターの初恋の相手ってとべっちさんのお母さんなんじゃない? たしか今は二人とも離婚しているはず。もしかしたらこれから先に再会してそのまま再婚ってこともありうるんじゃないかしら? そうしたら平澤かおりと平澤かおりが結婚してとべっちさんとふーちん先輩が兄妹になるけどその後さらに結婚してやっぱり平澤かおりがもう一人増えて……」


「そうなると大変ね。おとうさんが作家の『平澤かおり』で、その奥さんが旧姓平澤香織。息子が平澤健吾でその妻がふーちん先輩で平澤香織?」


「いったいどんな家族だよ。ややこしいったらないな。それにしても笹葉さんも瀬奈も、いくらなんで妄想が暴走しすぎじゃないか? まったく。桃色の脳細胞を働かせすぎだよ」


「あら、乙女はいつでもロマンチストなのよ」


「まったく。結局みんなロマンチストなんだろうな……男も女も……」


 僕はそんなことを呟きながら窓の向こうの景色を眺め……ようとしたところで渦中の人物、平澤……いや、福間香織先輩と視線がぶつかった。チワワのような愛らしい視線……ではなく少しばかり怒っているようにも見える。


「こらっ! 瀬奈ちー。またこんなところで油売ってる! 忙しいんだからサボってないでちゃんと働きなさいよね!」


「あ、ご、ごめんなさい~」


 慌てて仕事に戻る瀬奈。それを見てくすりと笑う笹葉さん。少しは、元気になってくれただろうか。笹葉さんには、早く大我のことなんか忘れてもらって素直に笑えるようになってほしい。


 でないと、僕が想いを寄せる笹葉さんの親友のこともあるし、さらに僕は笹葉さんを捨てた黒崎大我という全女子生徒の敵である男の恋のキューピッド役を買って出ようとしているのだ。その事で笹葉さんに後ろめたさを感じるのはごめんだ。


 放課後になって、僕は旧校舎の部室へと向かった。戸部っち先輩に約束していたサイン入りラノベを渡すためにそこに来るように言っておいた。


 教室には、めずらしく栞先輩はまだ来ていなかった。あるいは彼女のことだ。あえてこの場に来るのを遅らせているという可能性もある。


 しばらくたってもやはり栞さんはやってこない。彼女のクラス、二年の美術科クラスの教室はこのすぐ近くで、僕の一年の特進クラスはここから最も遠いところにある。そのためいつも栞さんが先に来ているので、この教室に僕がひとりっきりだというのは珍しい。


 そして、なんだか少しだけ淋しくもある。

 ガラッ。と、入り口の引き戸が明けられる音がした。


「あ、栞さ……」


「あ、いや……ごめん」


 決して戸部っち先輩に非はないにもかかわらず、なぜか彼は後輩の僕に向かって頭を下げた。


 早速僕は鞄から著者のサイン入りのライトノベルを取り出した。


「すいません。これ、頼まれていたものです」


「あ、そ、そうか……ありがとう」


 戸部っち先輩は控えめな礼を一つして受け取る。もう少し喜んでもらえるのではないかと期待していたせいで、少し残念な気持ちになる。


「すいません。作者の方に、誰にも正体は明かさないでくれっていう条件でサインをもらいました。ですので、証拠はないのですが、そのサインはまぎれもなく作者本人のものですから」


 なんて、瀬奈や笹葉さんには何の躊躇もなくばらしてしまった作者の正体を、あえて本人に伝えなかったのは、その正体を知って戸部っち先輩が落胆しなくてもすむためだ。現役覆面女子高生作家が、実は中年の男であるだなんて知りたくもない事実だ。


 しかし、戸部っち先輩はそんな僕にニヒルな笑いをうかべて答える。


「いいんだ。いいんだよ……。実はね、ボクはこの『平澤かおり』というペンネームを持つ作家の正体を知ってしまったんだ」


 少し、諭すような優しい目つきで僕の方を見る。


「そう……ですか……」


「正直。ちょっとだけショックだったかな」


「すいません……」


「いいんだよ。実はね、ボクが初めてそのペンネームを発見した時、驚いてすぐに買ってしまったんだよ。なにせ母親と同じ名前なんだ。でも、するとどうだろう。その物語の舞台は明らかにこの学校が舞台になっていて、福間さんの家のサンドイッチ屋まで登場するんだ。


 ボクは有頂天になった。きっとこのライトノベルの作者、『平澤かおり』の正体は福間さんで間違いが無く、あえてそのペンネームを本名の福間ではなく、平澤としたのは……彼女が、ボクのことを好きだからに違いない……そう思ったんだよ」

 戸部っち先輩はゆっくりと窓のそばにより、窓を開けて外を眺める。まだ暑さを含む風が教室に流れ込む。


「でもさ……自分からそんなこと、彼女に問いただせないじゃない? だからボクは葵さんを利用しようと考えたんだ。全部僕の勝手な思い込みだなんてまるで気づかずに……そしたら、小説のことなら君の方が詳しいからって、葵さんから君を紹介された。

 勘の鋭い葵先輩のことだ。そんなボクの企みなんてすべてお見通しだったのかもしれないね。それであえてボクに君を紹介した。まったく。笑い話にもならないね」


「まったくです。作者が、本当は男だなんて、知りたくもなかったでしょう?」


「でも、まあいいさ。きっかけはともかく、ボクはこのライトノベルを読んで本当におもしろい話だと思ったんだよ。だから純粋にこの本のファンになったし、サインもうれしいと思っている。だから君も、そんなに遠慮なんかせず、ぜひ次回も面白い作品を書いてくれ」


「あ、はい……」


 ――場の流れでつい返事をしてしまったが、なにかがおかしい。

 頭の上に疑問符が浮かぶ僕の目の前で、戸部っち先輩はスマホを取り出して操作する。検索された画面を僕に見せる。そこには、



 〝今話題の覆面作家『平澤かおり』の素顔写真流出!〟

 

 そんな見出しのついたページには、見覚えのある写真が添付されている。

 衝撃的な見出しに添えられた写真は中年のおっさんの写真なんかではない。間違いなく美人の女子高生が目を狐のように細めて笑っている。顔のほとんどは添えられた狐のお面で隠されているが、それが誰だかわからないはずがない。目を狐のように細めている。どこか『ししっ!』と笑っているようだ。忘れもしない、瀬奈が二人分のサンドイッチと引き換えに引き受けたお店の広告用の写真。


「ボクにだって、この写真の彼女が平澤かおりの正体だなんて、ただのフェイクだってことくらい簡単に見抜けるさ。彼女、いつも君と一緒にいる子だよね。そして君は、随分と小説に詳しいときている」


「あ、いや……」


 どうやら戸部っち先輩は平澤かおりの正体が僕なのだと勘違いしているらしい。僕は慌ててそれを否定しようとした。――が、


「すいません。騙すつもりはなかったんです……」


「いいよ。気にしていない」


 

 真実は教えないことにした。

 きっとその方が戸部っち先輩のためにもなるし、あの喫茶店のマスターのためにもなる。


 だからあえて僕は、『現役美人覆面女子高生作家』の仮面をかぶることにした。

 もともと、普段からいろんな仮面を使い分けている身だ。そんな新たな仮面が増えるのも悪い気はしない。


 そもそも、どんな仮面も付けることなく正々堂々と生きているやつなんて果たしているだろうか。


 こう見られたい自分。隠したい自分。さまざまな仮面をつけて人は生きている。

 ガラッ! と、入り口の引き戸の開く音がする。


「ちゃーお」


 と元気な声が響く。


「あれ? 今日しおりんいないね? まあいっか。ユウがいるし!」


 天真爛漫に笑う瀬奈。

 彼女は、彼女だけは仮面なんてものを必要としていないのかもしれない。いつでも自分の心に正直に生きている。だからこそ、多くの仮面を使い分けている僕が惹かれてしまうのかもしれない……なんて、実は彼女こそがものすごい仮面をつけて生きる人物で、僕なんかには到底見破ることができないだけなのかもしれない。

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