『春琴抄』3

「んー、そうだな。谷崎潤一郎なんてどうかな? あれってなんとなくライトノベル的な魅力的なヒロインの話が多いんだよね……。『細雪』なんて美人四姉妹とのウハウハハーレムな話だし、『痴人の愛』は小悪魔的美女に振り回される話だし、とんでもないヘンタイ脚フェチの話だったりいろいろあるけどまあ、僕としてのおすすめはやっぱり『春琴抄』かな。ツンデレ美女とヘタレ青年のハートフルラブコメディーみたいなもんだよ」


「春琴抄か」ぼくはそのタイトルをスマホにメモした。


「春琴抄の話かい?」


 コーヒーのお代わりを頼んでやってきたマスターが不意に話に割り込んできた。


「春琴抄にはこんなエピソードがあるのを知っているかな? この作品が書かれた時代の日本は政治運動が盛んに行われている時代だった。特に文壇に立つ人間はその作品の中で大きく世論を動かす力を持っていて国は政治犯として厳しく目を光らせていたんだ。谷崎潤一郎と仲の良かった小林多喜二もそのころ逮捕されている。


 そのタイミングで書かれた春琴抄の時代なんだが、〝桜田門外の変〟が起きている。当時世間を大きく騒がせた事件で、その時期に生きていた春琴たちの周りにも少なからず影響を及ぼしたはずだ。でも、あの話の中にはその事件の事には全く触れられていない。それどころか佐助は自分の目をつぶすんだ。


 つまりこれは谷崎自身、周りで政治的になにが起きようとも自分には関係ないのだ。という主張ではないかと言われているんだ。まあ、作家というのは因果な商売だよ。筆舌を尽くして世の中に言葉を送り出す職業なのに、世間の風潮だとかでその言葉を封じられてしまうことが多々ある。これでは思ったように仕事なんてできないだろう。ここ岡山県の誇りである横溝正史にしてもそうだろう。彼は戦争のために書きたいこともかけず岡山に疎開してきて俗にいう『岡山もの』を書いた。彼の著作の多くに戦争で体を不自由になったものが多く出てくる。あれは戦争のはびこる世間の中で描きたいことを書かせてもらえなかった作家のメタファーなのかもしれないな」


 そんな話をゆーちゃんは食い入るように聞いていたが、ぼくを含め他三人にはあまり興味のない話のようだった。そして、そんな普段は無口な彼の発言は自身が文学好きだと主張しているに違いなかった。誰かがマスターに対し、読書家なのかといった質問をして、それを否定することもなく、むしろかつて小説家になることを夢見た時代もあった。というようなことを話した。最後に、「昔のことだけどね」と締めくくった。


「あーあ、アタシもちゃんと本とか読まなきゃダメかな……」


 宗像さんは呟いた。


「ねえユウ、なんかアタシにお勧めの本ってないかな?」


「どんな話がいいんだ?」


「うーん、そーだね、字が少ないやつ!」


「言ってるそばから読書しようってつもりじゃないよな、それって……」


「じゃあさ、せなちー。いっそのこと童話を読むってのはどうかな?」


「童話? それはよーするに子供向けの本を読むってこと?」


「ああ、それはいいかもしれないな」


「それってアタシのことを子ども扱いしてる?」


「そうでもないよ。結構童話って深い事を書いていたりするもんなんだよね。子供の頃に読んだ童話とかって、大人になってもう一度読み返してみると『ああ、そういうことだったんだ』って思うことが少なくないんだよね」


「たとえばどんなの?」


「そうだな。やっぱり宮沢賢治は鉄板かな。銀河鉄道の夜はSFとして見てもやっぱり傑作だよ。宮沢賢治ってさ、『雨ニモ負ケズ……』でなんだか聖人君主みたいな扱いを受けているけれど、あれは戦時中のプロパガンダで利用されて有名になっただけで宮沢賢治の作品自体は結構な皮肉や毒が語られている気がするんだよね。なかでも『きいろいトマト』なんて結構きつい。幼いペンペルとネルはただの黄色いトマトを黄金のトマトだと信じて大切にするんだ。でもそれがある日、ただの黄色いトマトだと知ってしまう。知らない方が幸せってこともあるんだなって考えさせられるよ。あとは『ツォのねずみ』とか。自分では働かない怠け者のねずみが自分が働かないのは猫がうろうろして自分を脅かすの悪いんだ。だから猫が自分の生活の面倒を見るべきだって主張する。ああ、今の時代こそこういうやつっているよなって思うよ。瀬奈こそなんかないのか? 子供のころ好きだった童話とか」


「あー、学校でやったやつ……。そうそうたしか『てぶくろをかいに』って話」


「新見南吉ってたしか『ごんぎつね』もそうだったよね。きつねが好きなんだな」


 そこであみこさんがまた悪い癖で割り込む。


「てぶくろをかいにの中では名台詞があったよね。学校の授業でそこを誰が朗読させられるのかでみんなドキドキしていたのを覚えているよ」


――でも確かに、そういう記憶はあった。


「そう、『おかあさん、おててがちんちんこするよ』ってセリフのこと」


「〝こするよ〟とは言っていない。〝するよ〟だ」


「うん、やっぱりたけぴーはツッコミどころが正確だ。ノンケだね。あーしは童話と言えばあれが好きだった。たしかアンデルセン童話だったかな『マチウリの少女』」


「ああ、マッチ売りの少女ね。アタシもあのおはなし好きだったな」


「いいよね。貧乏な少女が街に出て売りをする話だよ。少女が誰もいない路地裏に行ってマッチ棒をこする度に御馳走にありつけるんだよ。でも最後に少女は天国へとイッテしまうお話だ」


「葵さん。もう、そのあたりにしておいたほうがいいかな」


「うーん、つれないねえ。でも童話と言えば芥川龍之介の『蜘蛛の糸』ってのがあるわね」


その言葉に、ゆーちゃんが少し目の色を変えた。


「あーしが思うにはさ、カンダタはたいしていいことなんてしてないのに蜘蛛の糸という救いがあたえられたんだけど、そんなら誰だって救われて当然なんだよね。それなのにカンダタにだけ救いが与えられたっていうのはつまり、カンダタは悪人は悪人でもとびきりの悪人で、お釈迦様もどうにか救ってやらなければと思わせるほどの悪人だったということだよ。つまりはなんにしてもその他大勢になっては意味がないということなんだよね。たとえ悪い事でも誰かの目に留まるほどの悪人でないと救われるチャンスさえ与えられないんだ。それにもっとひどいのはカンダタ以外の罪人だよ。自分の力で目立つ努力もしないで他人に与えられた蜘蛛の糸にすがろうとしているんだ。当然、救われる資格はないね。そういう烏合の衆に足を引っ張られてカンダタもまた地獄から抜け出るチャンスを奪われてしまうんだよ。

 あれは何も地獄の話とも限らない。この世の中だって似たようなものじゃないのかな」


「まったく。葵さんはひねくれているよね。まあ、僕が言えたことではないかもしれないけど」


「あのさ、口をはさむようで悪いんだけど、蜘蛛の糸はね、切れないんだよ」


 ぼくは言ってみる。


「切れない?」


「そう。たとえ下から罪人が何人も登ってきたところでね。いい、蜘蛛の糸っていうのはね、実は自然界が作り出す最強の物質なんだ。その強度は鋼鉄よりもはるかに強く、ナイロンのような伸縮性を持っているというとんでもない物質なんだ。天界からたらされた蜘蛛の糸をカンダタがよじ登ったと書かれてあるけれど、本来の蜘蛛の糸はとんでもなく細い、それを掴んで登るというのだからその垂らされた蜘蛛の糸というのはおそらくそれなりに太いものだったのだろうと考えると、その強度には充分の信頼度があると言っていい。つまりあの話はSFなんだよ。知ってる? 蜘蛛の糸を人工で生成してその糸を織り込んだ防弾ベストのこと。軽いうえにものすごく丈夫なんだ」


「そうか、蜘蛛の糸は信用していいか……」


「ねえ、アタシ思ったんだけどさ」瀬奈が言う。「カンダタはうしろから上がってくる罪人なんて気にしなければよかったんじゃないかな。糸が切れてしまうかもしれないなんて心配するくらいなら下にいる人達を振り下ろすことよりも、糸が切れる前に上りきることに専念すればよかったのよ」


 

 それからまたしばらく話をしてからゆーちゃんが立ち上がった。


「じゃ、僕はそろそろ帰るよ。ぽっぽはどうする? 一緒に帰るか?」


「いや、遠慮しておくよ。ぼくはもう少しゆっくりしてから帰る」


「うん、そうか」


 ひとりで立ち上がり、店を出ようとするゆーちゃんの後を当然のように瀬奈さんも店を出ようとした。ぼくは彼女が返したはずの傘を持っていないことを思い出したのだ。確か、トイレに入ってから……そのまま忘れてしまっているんじゃないだろうかと思い、それを告げようと立ち上がる。

声を出そうとした時にテーブル席の下で向かいに座っていたあみこさんはぼくの脛を蹴り飛ばした。思わずあみこさんの方に向き直ってその目を見て悟った。『余計なことをするんじゃない』と言っているのがわかった。二人が立ち去ってから、あみこさんにが何か言おうとしたときにそっと教えてくれた。


「心配はない。せなちーのことだ。鞄の中に折りたたみ傘くらいは持っているんだろう」


「……能ある鷹は傘を隠す」


「いや、それを言うなら『能あるタカは加藤鷹』が正解だ」


 ぼくは大きくため息をついた。きっとこんなだからあみこさんには友達が少ないんだろうと思う。


 あのあとすぐにぼくは『春琴抄』を読んでみた。

春琴抄の佐助は世間一般ではマゾヒスト言われているが、ぼくは少し違うような印象を受けた。たしかに春琴は佐助のことが大好きでサディスト的に佐助に接していると思う。春琴のイニシャルも《S》だ。では、佐助はどうか? 佐助は押し入れの中で三味線を弾きながら春琴のように盲目な人間の気持ちを体験して喜んでいた。自分の目を突いた時も自分がめしいになったといって喜んでいた。これはマゾヒストというよりは単に春琴に憧れて、自分も春琴になりたかっただけなのではないかと思う。佐助は単なる自己満足者〝Self satisfaction〟で、その意味での《S》ではないか、佐助のイニシャルはS。

いやいや、そんなことを言えば春琴の姓は鵙屋なのでイニシャルはS.M。


 ――なんて、こんなひねくれた考察はゆーちゃんの受け売りみたいだ。ぼくは単にゆーちゃんに憧れて、ゆーちゃんみたいになりたかっただけなのかもしれない……。


 その点に関して言えばあみこさんが言うように、僕はゆーちゃんのことが好きだといえるのかもしれない。もちろん、BL的な意味ではなくて。


 ところで、そんなゆーちゃんの好きな人とは一体誰なんだろう? 中学時代から忘れられない想いを引きずる〝MM〟なのか、それとも笑顔のすてきな〝MS〟なのか、今、ぼくの目の前にいる〝Sさん〟なのか……。いや、ひょっとすると他にもぼくの知らない〝S〟や〝M〟がいるのかもしれないけれど……。

 

 ふとぼくは自分自身のことを考えてみた。ぼくのイニシャルはH・Hだ。それはいったい何という言葉の頭文字だろうか。


 ああ、そうだ。考えるまでもないよな。


 H&Hといえば、ハイブリッド・ハートに決まっているじゃないか。

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