『春琴抄』谷崎潤一郎著 を読んで  鳩山遥斗

『春琴抄』1

『春琴抄』谷崎潤一郎著 を読んで               鳩山遥斗



 盲目の三味線奏者の春琴とその身の回りの世話をする丁稚の佐助。その献身的な生活の中で春琴は顔に大きなやけどを負ってしまう。やけどを負って醜くなってしまった春琴は佐助にその顔を見られたくないと言い、佐助は自分の目をつぶす。マゾヒズムを超えた耽美な物語。


 ――イニシャル『S』のその意味は。


 ぼくがこの本を読むきっかけになったのは友人のゆーちゃん、竹久優真の勧めだった。


 ゆーちゃんはずるい人間だ。いつも後からやってきてはおいしいところを全部持っていく。なにをやらせても器用で、これといって特別な人間というわけでもないのにいつも決まってすべてに恵まれる。


高校生になって別々の高校に通うようになって、接点こそ少なくなったものの、かろうじてつながりのあったゆーちゃんはそんなぼくに決して少なくはない刺激を与え続ける。


イニシャル《S》から始まるその人は、とある雨の降る日にぼくの前に現れた。

暗く、鬱々としたぼくの青春の前に現れて、すべてを雨とともに洗い流し、そこに一筋の晴れ間をのぞかせた。



ゴールデンウィークというささやかな連休が明けた翌朝、学校へと向かうギリギリの電車で偶然ゆーちゃんと乗り合わせた。正直な話、なんて声をかけていいのかわからない。


中学時代、二人はいつものように一緒にいたのだけれど、考えてみればなぜゆーちゃんのような人がぼくなんかと一緒にいたのかわからない。

現に、高校に入ってぼくの傍から離れたゆーちゃんは高校では完全無欠と言っていいほどのリア充なグループに身を置いている。普通に過ごしていれば、僕なんかとは決して接点など存在しないようなグループ。


いまさらながらに深い溝の存在を知ったぼくは身の程をわきまえ、どうやって声を掛けていいのかもわからない。はずまない会話に追い打ちをかけるように窓の外には雨が降り始める。


ぼくは傘を持っていなかった。それに対して、こんな時でもちゃんと傘を持ってきているゆーちゃんはやはり完璧だ。


電車を降り、一人駆け足で駅の購買に走ったが、小さな田舎の駅の購買では急な雨が降ると簡単に傘は売り切れてしまう。

購買の前で肩を落としたぼくは自分の生まれの不幸を呪い、雨に打たれる覚悟を決めた。


「ねえ、君。傘ないの? よかったらこれ、使いなよ」


 そんなぼくに声をかけてくれた少女。見ればゆーちゃんと同じ芸文館高校の生徒だ。まるで太陽を連想させるかのような健康的な肌色の完全無欠の美少女だった。

 本来、ぼくなどに声をかけることなどありえないようなその美少女はその手に持った赤と黄色のストライプ柄のかわいらしい傘をぼくへと差し出す。


「そ、そんな、つ、使えないですよ……」


「いいから、いいから」


「だ、だってあなたにそんなことをしてもらう理由がありません!」


「理由? そんなのって特に必要? うーん、そうね。それを強いて言うのならば、だれかにカシをつくるのがアタシの生きがいだからってのはどう?」


「そ、そんなことを急にいわれても……。そ、それにこれをぼくなんかに貸してしまったら、あなたはどうするんですか!」


「いやいや、アタシはちゃんとほら」と、鞄の中から折り畳みの傘をのぞかせた。


「そんなわけだからその傘はあんたに貸したげる。じゃあね!」


 傘をぼくに押し付けるように手渡した彼女は、そのまま芸文館高校のある駅北口へと走り去っていった。


 ぼくはその日、少し恥ずかしかったけれどその赤い傘を差して学校へと行った。

 放課後、すっかり雨の止んだ東西大寺駅の構内で、僕はしっかりと乾かした赤いストライプの傘を手にうろついていた。あの、名前も知らない美少女に一言お礼を言って傘を返すためだ。


 それ以上のことは望んでいない。ぼくはそれほど身の程をわきまえないような奴じゃない。


「あれ、ぽっぽっぽ君じゃん!」


 と、ぼくの名をわざと間違えて呼んでくるのはあみこさんだ。

 あみこさんとは『ぶちすげえコミックバトル』で知り合った。ぶちすげえコミックバトルというのは地元で行われている同人誌とコスプレのイベント。いわゆるコミケだ。


 あみこさんはブースで一人、自作の同人誌を販売していた。その姿があまりにも初恋の人に似ていたせいで思わず彼女に近づいた。


 黒髪の文学乙女。ミヤミヤこと若宮雅さんはぼくの初恋の人。


 中学時代、彼女はいつも一人で図書室にいた。ぼくは読書家というほどではないけれどライトノベルなんかは結構読んでいるし、きっとミヤミヤとは趣味が合うんじゃないかと考えていた。だけど積極的に話しかけるほどの勇気のないぼくは彼女に想いを伝える方法を考えていた。


 彼女は読書家で、きっと彼女にアピールするならこの方法しかないと考えた。

 ぼくは最近自分でラノベを書くことに挑戦し始めた。まだまだ未熟ではあるけれどそのセンスに絶望するほどではないと思っている。そこでミヤミヤに対するぼくの気持ちを小説風にして書きしたため、あたかもそれが買ってきた本のページのように見えるような紙に何枚も印刷した。


 彼女が放課後毎日過ごす図書室の真上は屋上で、その印刷した紙を紙飛行機にして飛ばす。校舎の屋上を旋回した飛行機はぼくの思いを乗せて図書室のベランダの戸をノックするのだ。


 しかし、そうそううまくは事が運ばない。そこに訪れた友達のゆーちゃんはそんな僕のたくらみを知らず、一緒になって紙飛行機を折っては屋上に飛ばした。


 やがて、ゆーちゃんの折った紙飛行機が計画通りに図書室の戸をノックした。だけど、ぼくの計画はそこから先を考えてはいなかった。ぼくの書いた文章が、紙飛行機となってミヤミヤのもとに届いたことで悦に浸っていた。


「ちょっととってくるわ」


 ゆーちゃんが言った。


「いいよ。別に紙飛行機くらい」


 ぼくの言葉を聞かずゆーちゃんは小走りに図書室へと向かった。


「いいって、べつにー」


 ぼくの言葉は届かない。しばらくして一人屋上で立ち尽くすぼくのもとへ帰ってきたゆーちゃんはそそくさと荷物をまとめて帰ると言い出した。


 ――いやな胸騒ぎがした。


 しばらくしてぼくも帰ることにした。今日やるべきことはとっくに終わっている。下駄箱で靴に履き替えているところにミヤミヤがやってきた。ぼくの心臓は今にも飛び出しそうになる。


 ミヤミヤは言った。


「ねえ、竹久君。知らない?」


 ぼくがゆーちゃんと仲がいいことくらいは彼女は知っているだろう。だからぼくのところへゆーちゃんのことを聞きに来たのだ。でも、ミヤミヤとゆーちゃんが話しているところなんて今まで一度だって見たことがない。


 ミヤミヤの手には、開いた後、丁寧にしわを伸ばした紙飛行機があった。


 ぼくの思いは確かに届いた。でも、たぶんミヤミヤはそのメッセージを送ったのはゆーちゃんだと思い込んでいるのだと悟った。


「その……、その紙飛行機のことなら書いたのはゆーちゃんじゃないよ」


「え……」



 ――それを書いたのはぼくなんだ。


 とは、さすがに言えなかった。恥ずかしすぎて、ミヤミヤの顔をまともに見ることなんてできない。逃げるように視線をそらし、たまたま目に入った人の名を出す。


「片岡君だよ。あいつに頼まれてぼくたちが紙飛行機を折って飛ばした。それだけだよ」


「そう――なんだ」


「うん」


 ぼくはそれだけ言い残して立ち去った。

 きっと、ゆーちゃんにだけは負けたくなかったんだと思う。それでも結局のところ二人はすっかり仲良くなってしまって、そこにぼくの入り込む隙間なんてなくなってしまったのだ。


 ぼくの初恋はこうして終わった。

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