『Ⅾ坂の殺人事件』7

三階の時計台機械室になっている扉に例の鍵を差しこむと鈍い音を立ててシリンダーが回転する。

 ドアを開け、中に入ると、天気のせいもあるが中は薄暗くてよく見えない。


「あ、そうだ!」


 宗像さんはポケットからスマホを取り出して画面をタッチした。グリーンがかったバックライトがその狭い室内を照らした。部屋の中にはむき出しになった時計台の機械、それに教室にあるのと同じ机と椅子が一組とピアノとがあった。宗像さんはスマホの明かりを頼りにずんずんと歩いていき、壁にあるスイッチを発見。電気は生きていて、機械室には明かりがともった。


「そっか、幽霊はここでピアノを弾いていたんだね」


 彼女のそんな言葉を無視してあたりを見渡す。時計台の裏側はいくつかのギアが絡まりある種の不気味な姿をかもしだしている。動きは止まったまま動く気配はない。それはまるでこの小さな部屋に何年も置き去られてしまった、時間を止めたままだというメタファーを示しているようでもあった。机の上には革張りの分厚い本がある。これは……おそらく独伊辞書なのだろう。元文芸部部室の棚から抜き取られた中身はこんなところにずっと置き去られていたようだ。よく見ると辞書のページとページの間になにか紙が挟んである。僕はその紙が挟まれているページを開いて見た。そのページの一角に付箋が張られてある。



 Ich liebe dich ――― Ti amo


 ドイツ語をイタリア語で説明されたところでなんて書いてあるかなんて到底わかりっこない。


「さっぱりわからん」


「ああ、これね。これはそうね。日本語に訳すのならば『月がきれいですね』っていうところかしら」


「宗像さん、読めるのか?」


「まあね。アタシは料理でヨーロッパの方に留学を考えているから少しぐらいなら…… それより、そっちの紙……」


 そっちの紙とはその辞書に挟んでいた紙。二つ折りにされていたものを開いて見るとそこには


『空を越えて死との狭間の世界で君を待つ』


「何これ。気味が悪い言葉ね。あれかしら、この部屋でピアノを弾いている幽霊の呪いの言葉?」


「宗像さんがそういうんならそうじゃないのか?」


「え?」


 ――つい我慢しきれなくてついに言ってしまった。


「だからさ、ピアノを弾いていた幽霊の正体は宗像さんなんだろ?」


「え、えっとー……」


「いいんだ。もうとっくに気づいていたから」


「い、いつから?」


「うん。まあ最初にそう思ったのは昨日かな。昨日僕たちが部室にいたときにピアノの曲が流れていただろう? あの時旧校舎にはたぶん僕たち以外だれもいなかっただろうし、葵先輩は僕の目の前にいて完全なアリバイがある。にもかかわらずピアノの音楽が終わってそのあとでさもありなんと登場したのが宗像さんだ。そんなの考えるまでもないよ」


「いや、ふつうは幽霊だって考えるでしょ」


「いや、ふつうは考えないよ。幽霊なんていないんだからね。それに、さっきにしてもそうだ。僕たちがあの日記帳を見つけたとき、宗像さんはすぐに『ねえ、開けてみようよ』と言ったんだ」


「それが、どうかした?」


「あの日記帳にはダイヤル式のカギがかけられていた。にもかかわらすぐに開けてみようというのはおかしいよ。まるで初めからダイヤルの鍵が開いた状態になっていることを知っているみたいじゃないか。普通なら『ダイヤルの鍵は何かしら』とでも言うべきだろう」


「あ、ああ……」


「さらに言えばあの時僕が見た機械室の狐火はスマホのバックライト。宗像さんは自分でこの部屋の鍵を開けては中に侵入してピアノを弾いていただけだ。残念だけど世の中は推理小説のようにはうまくはいかない。大体の策謀なんてそううまくはいかないものさ。それに、もし策謀がうまくかなってしまったのなら、名探偵なんているわけのないこの日常では完全犯罪として成立してしまい、それはだれの目にも止まることなく、解き明かされることなく闇に消えていくだけだよ」


「うーん。なんか、くやしいな」


「悔しがらなくてもいいよ。むしろ、ありがとう、楽しかったよ」


「そう、言ってもらえるなら……っていうかそうじゃないからね。アタシは初めからユウを楽しませようと思って計画したわけだから、むしろユウが楽しかったっていうんならアタシの勝ちだし……」


「それよりさ、あの曲引いてくれないかな。ムーンリバー。僕はあの曲が好きなんだ」


「うーんしょうがないなあ。ほんとはあんまり引きたくないんだよね。このピアノ、ラとシの調律がくるってるんだもん。長く使っていなかったから仕方ないんだろうけれど」


 

 彼女は軽快にその小さな指を古びた鍵盤の上で踊らせた。

〝ムーンリバー〟それがジョージア州に実在する川の名前だということを当時の僕は知らなかった。僕は勝手にその旋律から川の水面に映し出される月の姿を想像した。


 空のはるか彼方にある月よりは手の届きそうなところにはあるけれど、それは所詮実在しないもの。手が届いたとしてもやはり触れることなどできない虚像に過ぎないものだと感じた。  

そんな川を、オードリーヘップバーンは渡るのだと映画の中で歌っていたのだ。


 そして彼女のピアノを聞きながら、僕はふと考えてみた。まだ小学生のころに一度江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを読んだことがあるのだが、最近になって読み返した時にふと違和感を感じたのだ。


子供のころの僕は少年探偵団を率いる明智は人望が厚く、正義感の強い聖人君主のような人物だと思い込んでいた。しかし、『D坂殺人事件』をはじめ『屋根裏の散歩者』や『心理試験』と言った作品に出てくる明智小五郎は少し違う。それはやはり傲慢でしたたかで口先だけで人を意のままに操る狡猾な印象を受ける。これでは美学の確立した怪人二十面相の方がよほど親近感が持てる……。というか、これってもしかして真犯人は明智小五郎?


 そんな思いがするシーンがいくつかある。『D坂殺人事件』では明智はずっと犯人だと疑われているが最終的には思いもよらない、いや、むしろ納得しづらいような真犯人が出てくる。しかも自首だ。


 明智は口先の上手い男だ。そう、それはアガサクリスティ最後の傑作『カーテン』の犯人のように周りの人間に殺意を抱かせるような巧みな話術を持っているようにも感じた。


 D坂殺人事件の中で真犯人が自首する前に犯人が明智と会って話をしていると思われるシーンがある……。この時に明智が何かを言うことによってその犯人は殺人を犯したのが自分だと錯覚してしまった。というのは考えられないだろうか。あるいは明智が犯人と被害者両方をそそのかし、死者が出るような状況を作り出したとは考えられないだろうか。『屋根裏の散歩者』の郷田にしても明智が犯行をそそのかしたという見方だって十分できる。


『少年探偵団』シリーズにしたってそうだ。僕は今まで、そのシリーズのトリックは随分と陳腐で子供騙しなストーリーだとタカをくくっていたが、よくよく見れば明智小五郎と怪人二十面相は同一人物ではないかと思えてくる。つまり、一人の私立探偵が警視総監にまで上り詰めるために、怪人二十面相という架空の犯人をでっち上げた明智小五郎の自作自演の物語。


 いや、むしろそうでない限り実現不可能なトリックだってあるように思える。

 もちろんそんなことは作中に明記されているはずもなく、決定的な証拠の一つだってない。


 だが、乱歩自体が完全犯罪について研究していたことから考えても、明智が完全犯罪を成し遂げた物語。というものをつくっていたとして何ら不思議がないような気もするのだ。


 今回宗像さんが仕掛けた自作自演の悪戯では僕をだましきることはできなかったけれど、もし、本当に明智ほどにしたたかな人物がそれを仕掛けてきたならどうだろう。それは、きっと恐ろしいことなのかもしれないけれど、騙されたほうがそれに気づかなければ完全犯罪は成立するわけで、もしかすると僕はそのしたたかな誰かにまんまと騙されているのかもしれない。

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