『Ⅾ坂の殺人事件』3
旧校舎があるのは食堂の奥、体育館の裏にある細い坂道を登ったところにある。全く人の気配の無い、しかも日陰で日当たりも悪くじめじめした通路に山道の斜面を登っていく坂道がある。その手前の入り口にはペンキの禿げた赤さびだらけの格子扉がつけられているが、鍵はかかっていなかった。坂の上の方にかすかに古い建物が見える。
本当にここから上がっていくのか? 少しばかり警戒しながら格子扉を開けるとキイーと扉は音を立てた。地面の土をセメントで固めただけの道で両脇には草が腰ぐらいの高さまで伸び放題に伸びている。急に空の雲行きが怪しくなって、まるで立ち寄ってはいけない場所に踏み込もうとしている罪悪感のようなものさえ感じる。狭い坂道は人がすれ違うのも困難なくらいに狭く、ついさっきまで幽霊なんて平気と言っていた宗像さんは僕の背中にピタリとくっつく。強いて残念なことを上げるならば彼女のなだらかな体系で背中にピタリとくっつかれても何も感じ得ないということくらいだ。
坂道を少し歩くと開けたところがあり、そこには築六十年は超えるであろう木造二階建ての校舎らしきものがある。二階建ての上にもう一つ時計台のついた小さな三階部分が屋上に乗っかっている形だ。時計の文字盤の上には小さな窓が一つあり、内側から色あせたレースのカーテンが閉められていて中は見えない。時計はまるで見当違いな時刻を差していて、おそらくは動いていないだろうと推測できる。古びた焼杉の外壁は方々剥がれていていかにもおどろおどろしい雰囲気がある。
手前の入り口から入るとすぐの左手に上の階へ上がる階段があり、廊下はまっすぐ伸びて、左手に二つの教室が見える。この旧校舎にある部室だって何らかの展示はしているはずだろうが、まるで人のいる気配というものが無い。木造の廊下は歩くとキイキイと軋み、旧校舎中に静かに響き渡る。
僕たちはまず、そのまま二階に上がった。一階と同じく二つの教室があって、やはり誰もいないようだ。素通りするように三階に上がったが、三階に上がってすぐの踊り場に鍵のかかったドアがあるだけで中に入ることはできなかった。二階に戻り、片方の部屋は使われていない様子で、もうひとつの部屋には〝油画部〟と書かれた表札があるが中には誰もいなかった。無造作に並べられているキャンバスにはどれも桜並木の絵が描かれていた。窓の外を眺めると、なるほどここからの景色を描いているのだとわかった。この旧校舎のある高台からの景色はなかなかのものだった。元々が山の上にあるような学園だが、その中でも一番高いところにいるわけだ。眺め下ろす景色はすっかり葉桜に変わりきった桜並木の坂道とその向こうにささやかな街並み。遠くは東西大寺駅まではっきりと見える。風も涼しく町の喧騒からも離れ、ノスタルジックな気持ちにさせてくれる。
しかし誰もいないのであれば仕方ない。教室を出て一階に戻る。さっきまで静かだった旧校舎に怪しい声が響いた。その教室には〝競技かるた部〟と書かれてある。その部屋からは短歌を読み上げる声が響いている。なるほどさっきまでは暗記の時間で無音だっただけのようだ。たしかに耳を大事にするその競技はこういった静かな場所でなら都合がいいのだろう。だが、あいにく今の僕はかるたになど興味がない。その部屋を素通りして隣の教室には〝文芸部〟と書かれた表札がついている。その下にはなぜか『似顔絵描きます』と、意味不明でぶしつけな張り紙が貼られていた。中からは物音ひとつ聞こえない、とても静かなものだ。教室の窓からそっと中を覗いてみる。
そこには一人の女子生徒が座っていた。たったひとり。緑色のネクタイは一つ上の二年生だという事を表している。
蜂蜜をこぼしたような黄金色の夕日が差し込む古い木の教室でたった一人、本を開く女子生徒。短く切りそろえられた青みがかるほどの黒髪に、不健康そうな白い肌、そして黒目がちな大きな瞳に黒縁の眼鏡をかけている。差し込む夕日が教室内に舞う塵を白く輝かせ、幻想的な世界を作り上げている。
――僕はこの景色を知っている。でもこれはデ・ジャヴなんかじゃない。
そっと教室に入る。立ち込める紙とインクのにおいはやはり心を落ち着かせてくれる。無駄に広いだけの教室には四組の机と椅子が置いてあるばかりで、あとは大きな書架に本ががずらりと並ぶ。比較的新しそうな物から随分と年代的なものまでが揃っているようだ。黒髪の女子生徒は僕たちに気付き、優しそうに微笑みながら言った。
「君たち、ひょっとして入部希望者?」
「え、ええ、まあ、とりあえず見学を」
「そう、君たちはカップルなのかい?」
――そう思われることは決して不快ではない。……が、今頃黒崎君と笹葉さんが二人でどんな会話をしているのかが気になり正直に喜ぶ気持ちにもなれなかった。
「今日、初対面の友達です」
「そうか、じゃあ、まあ二人の出会いを記念して似顔絵でも描いてあげるよ、そこに座って」
「……」やっぱり気になるので正直に聞くことにしよう。「あの……どうして文芸部で似顔絵なんて描くんですか?」
「……ん? 文芸部? ここは漫画研究部だけど?」
「い、いや、ぶ、文芸部では」
「ああ、わるかったね。文芸部なら一昨年の卒業生で廃部になったらしいが……
それで昨年、あーしと先輩たちとで設立したのがこの漫画研究部というわけだ」
「あ、でも、表の表札は文芸部と書かれてましたけど……」
「ああ、それなんだよ。まったく、今年の生徒会といったらなってないね。たしかに一年前、あーしが入学したころは確かにここは部員ゼロの文芸部だったわけだが、今はこうしてあーしたちが新しい部を設立したにもかかわらずそこを書き変えていないんだ。おかげで今年は新入部員が集まらなくて困ってる」
今やこの学校に文芸部は存在してなどいなかった。大きな書架の本もよく見れば半分近くが漫画だし、先程彼女が持っていた本もよく見れば確かに漫画の単行本だ。
「残念だったね。まあ、いいじゃないかせっかくだからちょっとモデルになってよ。すごくいい被写体だ。特に……そちらの彼女」
たしかにそれに関して言うならば同感だ。僕と宗像さんとを椅子に座らせ、彼女は向かいの椅子に立膝をついて、その立膝にスケッチブックを立てかけてさらさらと鉛筆でスケッチしを開始した。本人は単に無軽快なだけだろうか、僕からすればその立膝当たりの光景が気になって仕方ない。思わず目を反らすと「こっち向いてて」と彼女は言う。もしかしてわざとなんだろうか? そんな思いをよそに彼女は余裕を持って話しかけてくる。
「あーしは葵栞(あおいしおり)という。この漫画研究部の部長だ。と、言っても今は一人しかいないから当然なんだけどね」
「アタシ、宗像瀬奈です」
「ぼ、僕は、た、竹久、優真。それにしても葵……栞さんってどっちも下の名前みたいですね」
「きみ、よく人のことが言えたね。竹久……優真……君だって十分どっちも下の名前みたいじゃないか。ところで君たち、もしよかったらうちの部にはいらないか?」
「ああ、でも、せっかくなんですが僕はあんまり漫画って読まないんですよね」
「まあ、別にそんなことはどうだっていいじゃないか。君はもともと文芸部に興味があったんだろう? 要するにそれをする場所が必要ななわけだ。だったらこの場所を使えばいいじゃないか。ここは静かだし集中できるよ。それにね、秋の生徒会の総会までに部員が三人残っていなければ部は廃部、おまけに部室も取り上げられてしまうからね。何としてもメンバーを集めたいんだ。まあ、助けるとおもって入部してくれると助かるんだが……」
言いながらもわずか数分で僕と、宗像さんの二枚の似顔絵を書き上げた。漫画研究部などと言っていたからてっきりもっと簡単なスケッチだと思っていたが、そのラフ画はかなり本格的なものだった。それぞれを封筒に入れて一枚づつ僕たちに渡しながら「考えてみてくれ」と葵さんは言った。
教室を後にして、旧校舎の建屋を出ようとしたところで唖然とした。いつの間にか結構な量の雨が降っていた。ここから新校舎までの距離は結構な距離があって、走ったとしても結構濡れてしまうんじゃないかと思われる。
「まあ、いいじゃない。どうせすぐに止むよ」宗像さんはそう言いながら玄関口の地べたに座り込み、「ここ」と言わんばかりに自分の隣の地面を二回たたいた。
二人無言のままならんで座り、降りしきる雨をしばらく見つめていた。
「ああ、これじゃあ今夜のブルームーンは見られそうにないね」
「なんだ、楽しみにしてたの?」
「だってなんだかロマンチックでしょ。ねえ、ところで……」
「なに?」
「ユウはもしかしてサラサのことが好きなの?」
――思わず息を呑みこんだ。「別に、そういう訳じゃないよ。仮にそうだったとしても所詮はブルームーン……。叶わぬ片思いさ、僕なんかじゃ逆立ちしたって黒崎君にはかなわないよ」
「はあ? 何バカなこと言ってんの? そんなのあたりまえじゃん!」
「……」辛辣な言葉に心が折れそうになる。しかし彼女は続けてこういった。
「逆立ちなんてするから勝てないんだよ。ちゃんと地に足ついて正々堂々と勝負しないと!」
「ごめん。やっぱり僕に正々堂々なんて似合わないよ。捻れて、ひねて、伊達と酔狂こそが僕のやり方……」
「器用なようで不器用だね」
言いながら彼女は空を見上げた。
「ねえ、アタシ雨って結構好きなんだ……」
「偶然だな、実は僕も雨が好きなんだ。雨の日のアスファルトのにおいとか、樹木のにおい。あと、さびた手摺が雨に濡れるにおいとか……。そういうにおいがなんか落ち着く。それにしても宗像さんが雨が好きっていうのは意外だったかな。なんかイメージに合わない」
「イメージってどんなイメージよ」
「……」
――まるで太陽のようなイメージ。心の中で反芻するが、もちろん口には出さない。僕は黒崎君のようにそれをさらりと言えるほどの器ではない。
「――あのね。雨降りの日って、お日様が休憩できるんだよ。いつもいつもニコニコばかりしているとさすがに疲れるでしょ。そんな時は雲に隠れて思いっきり泣くの」
そう言って彼女は視線を空のさらに上へと送った。僕もつられて見上げる。彼女は〝雨〟のことを太陽が隠れて流す涙なのだといいたいのかもしれない。雨粒はまるではるか天空の中心から放射線を描くように広がっているように見えるそれはまるで……。極楽浄土から地獄へと垂れさがるクモの糸のようにも見える……。
宗像さんは空を見上げ、句読点を打つ程度の短いため息をついて言った。
「ブルームーン、見たかったなあ」
「まあ、この雨じゃあどうしようもないな」
「うん。しょうがないよね。月だって泣きたい夜くらいはあるのよ……」
家に帰ってから漫画研究部で描いてもらった似顔絵を封筒から出してみる。似顔絵は僕のものではなくて宗像さんのものだった。間違えて渡してしまったのだろうと思ったが、葵先輩の性格を知っている今からすればたぶんわざとだったのだろう。さすがに部屋に飾っておくわけにもいかず、抽斗の一番上にそっとしまっておくことにした。
ゴールデンウィークとかいう、ささやかな連休が明けのひさしぶりの登校日、学校に到着して教室。黒崎君と笹葉さんは二人して僕のところにやってきた。
どうやら二人は恋人として付き合うことになったらしい。律儀にその報告だった。
こうなることはわかっていたし、だからと言って……いや、もうやめておこう。
あの日以来、ようやく仲が良くなってきたという友人たちと距離を置くようになり、僕は部活動という逃げ道を作った。
そして、現在に至る。
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