亡き母を偲ぶ!【後編】

崔 梨遙(再)

1話完結:2500字

 亡き母を偲ぶ物語、前回のお話は【前編】ということにします。今回は【後編】だと思ってください。



 浮き沈みの激しい少女時代から最初の結婚までを前回書き記しました。そして、母は喫茶店の経営をしながら定時制の大学に通い、父と出会いました。


 前回、書きましたが、母は好きな貧乏エリート(プラトニック)との結婚を諦めさせられ、祖母の指示で好きでもない金持ちの男と結婚させられました。ですが妊娠したら“堕ろせ”と言われ、結婚後に喫茶店を経営させられるなど、母は夫に対する不安が積もり積もっているところでした。母は専業主婦になりたかったのです。そして、母は子供が欲しかったのです。



 大学で、最初は、父の方から話しかけたそうです。話題は勉強と哲学の話が多かったらしく、年齢的には学生らしくない年齢でしたが、学生らしい話題が多かったそうです。父は母のことが大好きになったそうです。要するに、惚れたのです。母は当時、父のことをどう思っていたのでしょう? そこ、聞いておけば良かったです。


 やがて、父と母は恋愛関係になるのですが、父も母もパートナーがいましたので、母は夫と、父は嫁と別れなければいけません。どちらも話し合いは難航したらしいです。母には子供がいませんでしたが、父には2人の子供がいたのです。


 父は子供を2人とも引き取って離婚。母の方は夫に離婚届けにハンコをもらえずに困ったそうです。そして、母は家を出ました。


 母が家を出て行ったことで、母の夫も諦めたらしく離婚届けにハンコを押したとのことです。その時、夫は言ったらしいです。


「君のことは恨まないが、君のお母さんと妹さんのことは恨むよ」


 母は、何も答えられなかったそうです。妹(叔母さん)の学費を出してもらっている時に、“身分相応という言葉があるのを知らないのか?”と何度も言われていたそうです。その度に母は肩身の狭い思いをしたとのことですが、妹(叔母)も大学を卒業し、無事に教師になれた後でしたので、母はもう我慢が出来なくなったのでしょうね。余談ですが、金持ちの夫の親戚の集まりでも“母子家庭の貧乏人の子”と言われ、肩身が狭かったらしいです。半端じゃないストレスだったと思います。母はよく耐えましたね。僕なら無理です。



 家族4人の新しい生活が始まりました。やがて、僕が産まれました。4人が5人になりました。そして僕が4歳くらいの頃、1年半、家族でシンガポールに住みました。母は、シンガポールの生活が1番良かったと言っていました。広い家、家政婦と兄姉の家庭教師もいました。そうなんです、幼少期が恵まれた環境でしたので、家に家政婦と家庭教師がいる環境は、母が最も喜ぶ環境だったのです。母は、“シンガポールにいた頃が1番良かった”と言っていました。ちなみに、家庭教師は兄と姉のために雇われていました。幼かった僕には家庭教師はいませんでした。家庭教師は兄と姉の英語の先生。インド人の姉妹でした。


 ところが、会社の経営状態が悪くなり、急遽、シンガポールから撤退しました。緊急避難で祖母と叔母の家(母の実家)に住ませてもらって、父は就職活動をしたらしいです。良い会社に恵まれず、時間がかかりましたが父は就職が決まり、僕等は社宅に引っ越しました。


 それから、母は元々病弱だったのに、更に病弱になりました。元々、母は早産で1600グラムしかなかったんです。当時“スグに死ぬ”と言われた未熟児でしたが、奇跡的に普通に育ったのです。しかも、子供(僕)を産めたのです。お医者様からは奇跡だと言われていました。ですが、体力の限界はあったみたいで、朝は起きれないことが多かったです。母は特に心臓が悪く、よく夜中に発作を起こしていました。なので、幼稚園には父が自転車で送ってくれました。


 僕が小学校に入ってからも母は寝ていることが多かったです。ですが、PTAの役を引き受けてから、昼間は時々外に出るようになりました。外に出るときは上機嫌でした。母は外に出る方が好きだったのかもしれません。


 PTAの集まりには喜んで行くのに、家では寝込むのです。なので、中学からは給食が無かったのですが、僕はお金を渡されてパンを買って食べていました。何故か、母は無理をしてでもPTAの活動には参加していました。それで疲れて帰ったら寝込むのですが、PTAの仕事はやり遂げました。何かをやり遂げるのは、偉いと思います。母は、身体がツラくても人前では微笑みを絶やさない、強い人でした。


 また、母はよく薬を飲む人でした。風邪薬、胃薬、整腸剤、頭痛薬、ビタミン剤など、薬局に行くと1回で5~6万円を使ったりしていました。父は驚いたらしいですが、何も言わなかったそうです。薬代だけで5~6万、父の収入から考えて厳しいでしょう? そういうところには無頓着な母でした。


 喋るのが好きで、父が仕事から帰ってから、晩まで、ひどい時は夜中まで父とお喋りしていました。父も、よく耐えたと思います。夜中まで話が続けば、絶対に翌日は寝不足になるのですから。


 寝たり起きたりの母でしたが、僕が社会人になってスグに胆嚢癌になり余命半年と宣告されました。母はそのことを知っていました。死を目の前にしても、母はいつも静かでした。微笑みを絶やさない人でした。母は、“このことを誰にも言うな”と言いました。ですから、母が癌だということは母の友人達も知りませんでした。そして、半年ももたず、宣告から4ヶ月ほどで母は静かに亡くなりました。最後に、母の人生のテーマ“愛の追究と追求”というテーマを託されました。その件に関しましては『愛のエッセイ集』にまとめています。


 母の子供は僕だけですので、母に期待されていました。母が亡くなるまで、僕は母の望む人生を送っていました。ですが、母を亡くしてからは、僕は自分で人生の選択をするようになりました。結果、今の僕はどん底です。亡き母が誇れる人間になりたいのですが、なかなか上手くいきません。僕は今、とても親不孝です。



 就活が上手くいかず、今、僕の心は折れています。母の強さを見習わなくては!







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